mittlee読書と経済雑記ブログ

読書がメインのブログです。経済、社会、語学について気になったことを記載します。

自分の中に毒を持て、芸術とは生きること、岡本太郎が考える自分との闘い方

 人は生きていく中で悩む。仕事か、家庭か、人間関係か、健康か。日々通勤と仕事、家に帰っては生計費の支払いに家事(+育児、介護他)と追われる生活の繰り返し。何かに縛られている感じがする。何かの真似事をしている気がする。組織に振り回されている。己を大したことはないと思い、好きになれない等。

 上に列挙した悩みは誰しも多かれ少なかれ持っていると思う。どうにかして現状を打破できないかと思い悩んでいる読者諸氏もいらっしゃるだろう。本ブログの筆者は答えを持ち合わせていないが、岡本太郎は上記の悩みに対して言いたい放題に意見している。30年近く前に。

 

 この記事では、岡本太郎著、『自分の中に毒を持て』を紹介したい。人間の生き様、社会との関わり方について、岡本自身の体験談や洞察を交えながら平易な言葉で意見が語られていく。これを読むことで何か人生のヒントが見つかるかもしれない。

 

自分の中に毒を持て<新装版>

自分の中に毒を持て<新装版>

 

 プレッシャーをかけてくる表紙である。副題はsacré néfaste(フランス語:直訳だと有害な神聖さ。フランスでジョルジュ・バタイユとも若い頃に親交があったという著者岡本なので、聖俗の意で副題を付けているかもしれない)。

  

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

 

 

 岡本太郎は日本の芸術家である。1911年に神奈川県で生まれた。1929年にフランスに渡り、パリで抽象芸術やシュルレアリスム運動に参加。民俗学なども学ぶ。40年に帰国後は42年から中国大陸へ出征。45年の戦後は主に日本で活動。1970年の大阪万博の『太陽の塔』は今も日本中に知られている。1996年没。

 『自分の中に毒を持て』は1993年に出版された著作である。今回読んだのは青春出版社、青春文庫の新装版である。

 

 

目次

 

本書のテーマ

 本書でテーマにしているのは人の生き方、今までの自分を乗り越えるための自分自身との闘いである。芸術というのは生きることそのものである。皆さんもご存じのあのフレーズ、芸術は爆発だについて岡本が語っている言葉を紹介する。

ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。

"芸術は爆発だ"

(中略)

 ところで一般に「爆発」というと(中略)、イメージは不吉でおどろおどろしい。が、私の言う「爆発」はまったく違う。音もしない。物も飛び散らない。

 全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちのほんとうの在り方だ。

*1

  本書の随所で語られる、過激にも思える太郎節の根底には、この「爆発」の考え方がある。

 

迷ったら危険な道に賭ける

 人生に挑み、ほんとうに生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身ともに無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、命は分厚く、純粋にふくらんでくる。

 今までの自分なんか蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。

*2

  岡本は、自分らしくではなく、"人間らしく"生きる道を考えるように呼び掛ける。周囲の状況に甘えて生きるのではない。安易に生きそうになるときは自分を敵だと思うのだと。たとえ結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはないと。

 人生の岐路では、他の人も向かう道、無難な道、安全と思える道を選びがちである。しかし、岡本は危険な道を選んできたと述べる。経済やしがらみ、惰性的な道ではない。人間の全存在、生命それ自体が完全燃焼するような生に賭けるべきではないかという己への問い。それは即ち、人と異なる道、危険な道を選ぶことになる。

 しかし、その道の先は極端に言えば死を意味する(社会的に、経済的に人がいない場所であるのならば。)。それでも社会の分業の中に己を閉じ込めずに、自分が信じる芸術の道に彼は進んだのである。

 彼はこう述べる。

 青年は己の夢にすべてのエネルギーを賭けるべきなのだ。勇気を持って飛び込んだらいい。

 他人の人生をなぞるのではなく、己の人生を生きよと。不成功を恐れてはいけない、自分の夢にどれだけ挑んだか、努力したかが重要だと。安全な道と危険な道を前にして悩むということは、危険な道だけれどそちらに行きたいからに違いないと。ならば進んでみよと。

 ちょっとしたことでもいい。情熱を感じることを始めてみるのだと。三日坊主になってもいい。しかし、「いずれ」と「昔は」を言わないこと。現在に全力を尽くすのだ。

 自己嫌悪なんてして己を甘やかしていないで、自分の惰性ともっと徹底的に戦ってみようと岡本は呼びかけている。

 

個性は出し方

 社会体個という問題は避けて通ることができない。大きな、重い、人間の宿命だ。

  しかし、この闘いはキツイ。妥協、屈辱の結果、欲求不満、いらだち、告発が群がりおこる。(中略)

 世の中の人ほとんどが、おなじ悩みを持っていると言ってもいい。不満かもしれないが、この社会生活以外にどんな生き方があるか。ならば、まともにこの社会というものを見すえ、自分がその中でどういう生き方をすべきか、どういう役割を果たすのか、決めなければならない。

 独りぼっちでも社会の中の自分であることには変わりはない。その社会は矛盾だらけなのだから、その中に生きる以上は、矛盾の中に自分を徹する以外にないじゃないか。

 そのために社会に入れられず、不幸な目にあったとしても、それは自分が純粋に生きているから不幸なんだ。純粋に生きるための不幸こそ、ほんとうの生きがいなのだと覚悟を決めるほかない。

*3

  「出る釘は打たれる」という諺から始まり、個人の社会への向き合い方について岡本は語る。相手が教師でも、暴力的なガキ大将でも理不尽なことには抵抗する、自分の芯は貫くというのが岡本の生き方だ。才能のあるなしに関わらず、自分として純粋に生きることが人間の本当の生き方だと述べている。

 人生には世渡りと、本当に生き抜く道との二つがあるはずだと岡本は語る。処世的な道だけを意識するのではいけない。単純なようで複雑な人生を強力に意識し、操作することが必要なのだ。

 全体的、全運命的責任を取ること。自由に、明朗に、周囲を気にしないでのびのびと発言し行動する。難しいことだが苦痛であればあるほど、挑み、乗り越え、自己を打ち出さなければならない。たとえ下手でも挑むのである。

 挑み続けて世の中が変わらなくとも、自分自身は変わる。岡本は世の中が変わらなくても絶望的にならずに挑み続けることで生きがいを貫いていた。

 

愛し方、愛され方

 岡本はここでは恋愛とその他の愛(家族愛など)について語る。まずは恋愛である。

 僕の場合は、どっちの方がより深く愛しているなんて特に意識したことはない。恋愛だって芸術だって、おなじだ。一体なんだ。全身をぶつけること。そこに素晴らしさがあると思う。

 だから、恋愛も自分をぶつける対象としてとらえてきた。恋愛だからどうだとか、こだわって考えたことはない。

 *4

  運命的な出会いとは、相手を充たすと同時に自分が本当の自分になることだと述べている。恋愛とは自分をぶつける対象である。

 岡本は結婚という形式が好きではないと述べる。曰く、男と女が互いを縛りあう。〇DKという狭い境界に引きこもる。人間の可能性をつぶし合う。結婚という不自由を言い訳に自らが自由を実現できないことのゴマカシにする、妻子があると社会的なすべてのシステムに順応してしまう。一人ならうまくいこうが死のうが思いのままの行動を取れるetc......。

 夫婦である以前の、無条件な男、女でいる立場。新鮮な関係にあるようにしていかなければ一緒にいる意味がないとしている。最も親密な相手であると同時に、お互いが外から眺め返すという視点を忘れてはいけない。

 

 その他の愛についても、岡本は語っている。

(前略)実際にそんなことは不可能だけれど、わが亭主、わが親、わが子って、小さく仕切ってしまうのは、つまらない生き方だと思う。

 そうでなく、世界中の子供はみんな自分の息子だ、世界中の親はみんな自分の親だ、そういうおおらかな豊かな気持ちを持ちたいと思う。

*5

 小さな愛に閉じこもってはならないと述べる。

 親子愛についてはこう語る。

ぼくは生きるからには、歓喜がなければならないと思う。歓喜は対決や緊張感のないところからは決して生まれてこない。そういった意味で、親子の間にも、人間と人間の対決がなければならない。 

*6

 この対決とは、物理的に傷付けあうことでは決していない。大人が一段上から語るのではなく、子供にであっても対等に一人の人間として接することを良しとしている言葉である。

 

常識人間を捨てる、興奮と喜びに満ちた自分になる

 「美しい」と「きれい」は異なる。「きれい」は体裁のいいものである。しかし、「美しい」は無条件で絶対的なものである。ひたすら生命がひらき高揚した時に美しいという感動が起こる。それは一見醜い相を呈することがある。

 最も人間的な表情を、激しく、深く、豊かにうち出す。その激しさが美しいのである。高貴なのだ。美は人間の生き方の最も緊張した瞬間に、戦慄的にたちあらわれる。

*7

  

 岡本は、芸術・政治・経済の三権分立が今この世界で必要とされていると提唱する(もちろんモンテスキューの政治の三権分立、「立法」「司法」「行政」のオマージュである。)。ここでいう「芸術」とは、「人間」のことである。

(前略)素っ裸で、豊かに、無条件に生きること。

 失った人間の原点をとりもどし、強烈に、ふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。

 もっと政治が芸術の香気を持ち、経済が無償と思われるような夢に賭ける。

 (中略)あまりにも非人間的なあり方に「人間存在」と息吹をふきいれ、生きがいを奪回すべきなのである。

*8

 政治と経済の馴れ合いがすべてを堕落させる。ここに「芸術」によって生命力・精神を生き返らせる必要があると岡本は述べる(岡本は技術主義と経済優先による人口爆発や環境破壊等についても懸念を述べている。)。

 本書のテーマにて記述済みだが、岡本は生きるということを本来無目的非合理なものだと述べている。だからこそ生きがいがあり、情熱がわくのだと。

 例えば人は祭りのときに日常の自分とは異なる濃い生命感に生きる。「いのち」を確認し、全存在として開く。

ぼくは今まで一度も職業を持つことが、卑しいなどと言ったことはない。(中略)

 しかし、そのために、全人間として生きないで、職業だけにとじこめられてしまうと、結局は社会システムの部品になってしまう。

 それがいけない、つまらないことだ。

 ぼくの言う三権分立の「人間」=「芸術」が抜けてしまう。現代社会の一番困った、不幸なポイントだ。

*9

 

 岡本太郎は、今、現時点で人間の一人ひとりはいったい本当に生きているのだろうかと問題提起をしている。個人財産やマイホームの無事安全ばかりを願うのでは卑しい。生きがいを持って瞬間瞬間に自分をひらいて生きているかと問う。

 人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。

 死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。現在に、強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。

*10

 己を殺す決意と情熱をもって挑み、危険の中で生きぬくことを岡本は説いている。

 

まとめ

 日常と祭りの話や死との直面など、バタイユを連想する部分もある。

 本書では一貫して、人間として何かに挑んで生きているか、生きがいを持っているかということを問うている。しかし、何かに挑むということは安全から己を遠ざけ、死に向かわしめる毒でもある。現代社会においては甘美だが危険なものに違いない。

 日々の中に迷いを抱き、それでも何かを成し遂げたいとき、岡本太郎の言葉は(結果は保証してくれないが、)私たちの背中を押してくれるかもしれない。 

 

*1:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P214-P216

*2:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P11

*3:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P116-P119

*4:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P176

*5:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P192

*6:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P193

*7:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P204

*8:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P212-P213

*9:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P241

*10:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P246

疫病と世界史、感染症と人類(その2)‐先史時代、狩猟者としての人類

 人類も元々は自己調節を行う生態的バランスの中に収まっていた。典型的なのは食物連鎖である。大型動物たちとの間の食べたり食べられたりという関係はダイナミックで分かりやすい。しかし、熱帯に暮らす人類には微細な寄生生物も巣食っていた。今回のテーマは生態系の中での人類と疫病の関係である。

 

 前回に引き続いてウィリアム・H・マクニール著、『疫病と世界史』を紹介する。寄生虫、菌類、細菌類など様々な病原体がもたらす疫病が、人類の歴史にいかに影響を与えたかを先史時代から20世紀まで論じた野心作である。

 前回の記事はこちら。

mittlee.hatenablog.com

 

 

 

 

 目次

 

人類の居住地域と感染症、生態的バランス

 人類が熱帯亜熱帯にいる場合と、温帯まで進出した場合とでは接触する感染症感染症の持つ脅威や生態系のバランスは大きく異なったものとなる。先史時代のこれらの関係の変化を要約する。繰り返しになるが、本書の原著が1976年に出版されたことをお忘れなきよう。

 

熱帯雨林と人類、生態系のバランス

 (略)熱帯雨林は、寄生体と宿主、競争相手の寄生体同士、宿主とその食物という、三つの次元のいずれにも、高度に進化し完成した自然のバランスが保たれるのを可能にすると言える。何百万年も前、つまり人類が熱帯雨林の生態的環境を変え始める以前には、食う者と食われる者の間のバランスは、長い間ほとんど安定していたと推定してまず間違いないのだ。

*1

 サハラ以南の野生のサルは様々なダニ、ノミ、マダニ、蠅、蠕虫(ぜんちゅう)、多種類の原生類、菌類、バクテリア、さらに百五十種以上のアルボウイルスの宿主となっている。15種から20種のマラリアが野生のサルを侵す。霊長類、蚊、原虫の間では非常に長い間の進化的適応が行われてきたと推測される。人類の祖先が接してきた病気は回復も遅いが、重症に達するのも遅いという傾向を備えていた。

 熱帯雨林では一つの種が森林を支配するということはなかった。ここには地球上の他の地域(熱帯よりも低温またはより乾燥した地域)に比べて多種多様の生物が住んでいる。高温多湿な環境は、寄生体となる潜在的可能性を持った生物が、独立した生物体の中で、かなり長い間生存することを可能にする。つまり、宿主となる種(例えばサル)の個体数が少なく、密集していなくても、広範な汚染と感染をある宿主が経験しうるということである。寄生生物と宿主の接触機会が少なくても、熱帯では何らかの病気に感染しうる

 

人類の進化と病気の変化、熱帯の生態系の回復力

 熱帯雨林での人類の祖先、体内に巣食う寄生動物、人類を狙う肉食動物、人類に食われる動植物という生態系のバランスは人類の進化によって崩れることになる。その原因は学習の積み重ねによる文化的進化である。生物的進化、生態系との相互作用は非常に緩慢に進むため、バランスも大きくは崩れない。

 しかし、人類は急激な進化「定向進化」を遂げる。新しく獲得した技術によって、人類は自然界のバランスを変形させる能力を次第次第に向上させていった。肉体的心理的技術を習得し、狩猟と戦闘において人類は急速に強力となった。言語を習得し、社会的機能の統一が可能となった。反復、言語による伝達、体系化により生活技術は高度の完成に達する。

 病気の方はどうだろう。人類が熱帯雨林からサバンナに移るにつれて、寄生体は下記のような状況だったと推定される。

  • 密接な身体的接触が必要なものは影響を受けない
  • 高湿度を要求する寄生体との接触は減少した
  • サバンナの草食獣群との接触により新しい寄生体、病気と遭遇した(生肉の寄生虫が分かりやすい)

 

 サバンナの中で出会った恐ろしい感染症というと睡眠病がある。ツェツェ蠅がトリパノソーマを運ぶ地域では人類は睡眠病によって死の脅威にさらされる。

 サバンナでは人類はこれまで利用していなかった資源を利用し始め、生物界に新たな被害を与えることになる。完全な人間といえる狩猟人は食物連鎖の頂点に立った。つまり、ポピュレーションの増加を抑制する基本的な調節機構を失ってしまった(他の動物種とのマクロ寄生という意味においては)。それに代わる人口抑制の手段は、人間の人間による殺戮、そして望まれざる新生児の遺棄だったと考えられる。

 それでも、アフリカ大陸では汚染と感染が特に豊富かつ精緻なメカニズムを持っていた。蠕虫や原生類の寄生生物は免疫反応を生じさせない。つまり、ヒトの数が増えるほど、宿主から宿主への移動機会が多くなる

 

(略)ある決定的な限界を突破すると、感染症は奔流のように過剰感染となって爆発する。こういう、疫病の名に値するような状況は、通常の社会活動を阻害する。慢性の疲労、身体の痛み等の症候は、共同体全体に広がった場合、食物の獲得とか、出産、子育てなどの活動に重大な障害となる。これは直ちに人口の減少を招き、やがて、その地域の人口密度は、過剰感染が発生する危険度以下に低下してしまう。その後、この感染症に侵されない元気な個人が増えるにつれて、人間社会は活力を取り戻し、食物獲得やその他の活動が以前の通り繰り返され、やがて別な感染症が力を振るい始めるか、人口密度が危険な一線を突破して過剰感染が再発するまで続く。

*2

 

 狩猟民が増えすぎたことで獲物を得ることが難しくなり栄養状態が悪化していったと考えられる。上記の狩猟民の過剰感染(ミクロ寄生)は、栄養不足と相まって、先史時代のアフリカでは生態的バランスを回復させるのに役立ったと思われる。

 火災や干ばつなど気候や環境の変化も、人類にとっての好条件が維持されないことで、食物連鎖の頂点に立った人類の増加や徹底的な変革に対する抵抗となった。

 

温帯、寒帯への進出、寒冷地と感染症の脅威

 人類が進化してもなお、アフリカは生物的多様性に富んでいた。しかし、温帯や寒帯に人類が進出するようになるとこの様子は異なってくる。人類が火を使用したり、他の動物の皮革や毛皮を被るなど寒冷の地で暖を取る方法を学んだとき、事態はさらに大きく変化した。人類は四万年前から一万年前の間に南極大陸を除く陸地の大部分を占拠した。

 北方の森林や草原の野獣という新しい食料源を開発していくにつれ、生態的諸関係は急速に地球規模で変動していった。これを人類が成しえた理由は二つある。

  • 生存できるミクロの環境を作り出せたこと。(衣類と家屋による文化的適応の結果。生態的適応の必要度の軽減)
  • 熱帯の寄生生物、病原体から逃げられたことによる健康と活力の改善。 

  北方の温和な気候風土に適応する動植物は熱帯地方で旺盛に繁殖するものよりも数が少ない。さらに、温帯地方の生態的バランスは、熱帯よりも人間の手によって容易に乱されやすかった。

 通常はある生物のポピュレーションが大増殖すると、適切な強制手段が自然と作り出される。しかし、人類は資源が枯渇するたびに別の資源をあれこれ試み、新しい生活手段を考えることで、生物と無生物に対して支配を際限なく拡張させた。(生物、エネルギー資源など)

 北半球において南から北に向かうには寒さへの適応が必要だったためそれでも変化は緩やかだった。しかし、北から南への移動はそれは不要だ。アメリカ大陸では大型草食獣が短期間で人類により絶滅せしめられた。

 南から北の寒冷かつ低湿な地域へ進むたびに、寄生生物に曝される危険は小さくなる。他方で北から南の熱帯に進むにしたがって、寄生生物や感染症の危険は増すのである。

 

狩猟/採集から農業/都市へ、ポピュレーションの増加と新たな感染症

 人類が寒冷・低湿といった風土の奥深くに入り込んでゆくにつれ、人類の生存は大型動植物との生態的関係に依存する度合いを次第に強めた。ミクロ寄生生物が大した意味を持たない場所では、生存を左右する二つの重大因子、食物と敵を現実に見ることができる限り対処する方法を次々に発明していった。人類はこうして数百万もの人口を抱えることが可能となった。

 乱獲により大型狩猟獣という食物資源の枯渇、紀元前2万年以降の氷河の後退を伴う機構の激変という二つの要因から、狩猟に依存する人類の共同体は厳しい環境上の試練に直面した。食料探索の強化と新しい種類の食べ物の試食という対策に人類は向かった。海浜の利用をしたグループから舟と漁労の進歩が、食べられる草の実の採集に向かったグループからは農耕が発達した。人類の人口増加を抑える抑制機能に果たす役割について、熱帯以外ではミクロ寄生生物が果たす役割は相対的に小さかったと思われる。

 直接の肉体的な接触により宿主から宿主へと移行する寄生生物や、感染の影響が表れるのが緩慢で、宿主の人の活動力を急激かつ徹底的に奪うのではない寄生症の場合は、熱帯を出て人類と共に地球上を旅したと思われる。それでも感染症や汚染の種類は熱帯雨林に暮らしていたころと比して減少したに違いない。小規模な孤立した集団間を感染させるように寒冷地でふるまうには、ミクロ寄生生物側の生態的進化の時間が足りなかったのである。

 しかし、人の表面や内部に寄生する生物がほとんど不在というのは一時的な現象に過ぎなかった。

食料生産は人口数の爆発的増加を許し、都市と文明の誕生を促す。そして人類のポピュレーションは、ひとたびそうした大共同体に集中したが最後、潜在的な病原体に対してあり余る豊かな食料資源を提供することになった。そのさまは、われわれの遠い祖先が、アフリカの草原で大型草食獣の群れに初めて相対した時の脅威的な状況を彷彿させるものがある。こんどは微生物どもが、人類の村落・都市・文明の発達がもたらした新しい状況下で、思う存分の狩猟を期待することができるというわけである。

*3

 

 人口の爆発的な増加ミクロ寄生生物に好都合な環境を提供し始めた。それが都市だったのだ。

 

まとめ

 熱帯では人類は生態系の制約から、急速な人口増加は望めない。多種の生物の生態的な適応が追いつく前に、文化的適応により温帯、寒帯に進出することにより、人類はミクロ寄生生物の汚染から逃れることができた。しかし、人口の増加、人の密集により再度感染症を呼び込むことになってしまった。

 増えすぎた人口、密な環境は新たな感染症を呼び込む。2021年になっても続いているCOVID-19とも通じる要素である。次回は古代文明社会の発生と感染症をまとめたい。

 

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*1:McNeill,William H. (1976).PLAGUES AND PEOPLES. .(マクニール ウィリアム 佐々木昭夫(訳)(2007).疫病と世界史 中央公論新社,P50

*2:McNeill,William H. (1976).PLAGUES AND PEOPLES. .(マクニール ウィリアム 佐々木昭夫(訳)(2007).疫病と世界史 中央公論新社,P59

*3:McNeill,William H. (1976).PLAGUES AND PEOPLES. .(マクニール ウィリアム 佐々木昭夫(訳)(2007).疫病と世界史 中央公論新社,P73

疫病と世界史、感染症と人類(その1)‐ミクロ寄生とマクロ寄生

 人類の歴史は戦いの歴史である。相手は動物や、人間に限らない。人類は恐ろしい敵、疫病との戦いを繰り広げてきた。2020年は小さなウイルスがいかに人類を脅かしてしまうのかを我々に思い出させた年である。

 人類が病気の流行に脅かされたのは何も2020年の「COVID-19」だけではない。約100年ほど前のスペイン風邪による数千万人の死者が出たというのは子供のころに読者諸兄も学校で学んだことだろう。しかし、人類と病の関係がいつから続くのかということについて、我々は深く知らないのではないか。

 

 ここで、ウィリアム・H・マクニール著、『疫病と世界史』を紹介したい。寄生虫、菌類、細菌類など様々な病原体がもたらす疫病が、人類の歴史にいかに影響を与えたかを先史時代から論じた野心作である。

 

 本著作は上下巻に分かれている。

疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)
 

 

 著者のウィリアム・ハーディー・マクニールはカナダ出身の歴史学者である。1917年にカナダ・バンクーバーで生まれた。シカゴ大学歴史学を学び、1947年にコーネル大学で博士号を取得した。主にシカゴ大学で教鞭を執り、同大学の名誉教授でもあった。2016年没。主な研究テーマは「西洋の台頭」。

 マクニールには、異なった視座から歴史を解説した複数の著作がある。おそらく『世界史』という、修飾が無い、それが故に挑戦的に思われる上下巻タイトルを皆さん書店で見かけたことがあるだろう。

 

世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)

世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)

 

 

 

目次

 

本書のテーマ

  『疫病と世界史』に戻る。最初に注意として、本書の原著が1976年に出版されたことに触れておきたい。そのため、1980年代に名付けられたHIVウイルスやエイズ、21世紀初頭のSARSや2010年頃の新型インフルエンザには本文では触れられていない。(1997年に付記された序文ではエイズについて多少の分量の記述が割かれている。しかしながら2020年の見地からすると、この序文の中でのマクニールのエイズに関する記述からは事実の誤認(あるいは偏見)があるように感じられる。)

 本書は感染症の歴史を歴史学的説明の場に引き入れることを試みている。様々に変化する病気の伝播のありようが、いかにして古代から現代まで一貫して人間世界の出来事に大きく影響し続けてきたかを多数の事例を用いて示している。

 1976年、科学技術の進歩の結果として天然痘を根絶した頃に書かれた本でありながら、本書は人類が疫病を根絶できるという楽天的な考え方には与しない。本書の出版から20年後に記載された1997年の序文の一部を抜粋する。

  本書は自然の均衡を変化させるのに、われわれがいかに異常なほどの能力を発揮するかの重要な一面を示し、またその能力はいかに多くの限界があるかを探り出そうとする。(中略)われわれは依然として地球のエコシステムの一部であり、食物連鎖に参加し、それゆえ、様々な植物や動物を殺して喰らい、一方われわれの身体は、多種多様の寄生生物に対し、食い物に満ち溢れた沃野を提供している。地球のエコシステムにいかなる変化が起ころうとも、人類のこの本質的な条件は変わらない。(省略)

*1

 

 マクニールは本著作の重要性を1997年の序文の最後に述べている。

 本書はまた、宿主である人間と病原菌の間の移り変わる均衡に生じた顕著な出来事の数々を探っている。これはひとつの劇的な物語であり、ようやくその政治史と文化史にとっての重要性が広く認識されてきた。それゆえ私は二十年以上昔に書いたこの本を読者諸氏におすすめし、感染症がどんなにわれわれ先祖たちの生命をおびやかしてきたか、諸氏自身の眼でしっかりと見据えて頂くようお願いする次第である。*2

 

 

基本概念

 寄生、病気、悪疫への感染、それに関連する概念が述べられる。

寄生

 ある生物体にとっての食物獲得の成功が、その宿主にとっては、感染/発病を意味する。大部分の個々の人間の生命は、寄生のはざまで束の間の無事を保っている。マクニールは寄生者を二種類に大別している。

 微寄生(ミクロ寄生):病原体によるもの。多細胞生物の場合もあるが、多数はウイルス、バクテリアなど微小な生物体。

 巨寄生(マクロ寄生) :大型肉食動物などの捕食者や人間などの収奪者。

 

 寄生の在り方は多様である。ミクロ寄生を試みる病原体と宿主の関係は下記の4つに大別される。

  1. 短時間のうちに宿主を死に至らしめる
  2. 宿主の免疫反応により駆逐される
  3. 宿主が保菌者として自身は発病しないが他者に感染させる
  4. 宿主の体のエネルギーをいくらか奪いつつも、宿主の通常の機能を妨げない

 また、マクロ寄生の関係は下記の2つに大別できる。

  1. 即座に宿主の生命を奪う(ライオンや人間などの狩猟者)
  2. 宿主を不定期間活かす

 人類は、食物生産の術を手に入れたことで、2から「緩和されたマクロ寄生」を生み出すことに成功した。征服者が食物をある共同体から全て奪うのではなく、毎年不定期間(安定するには1年以上)の生存に足るだけのものを残すことで、安定した人間どうしの寄生関係が生まれた。

 

 個人にせよ社会にせよ、「外部」から変化が加えられた際に均衡を保とうとする基本パターン(影響の最小化を試みる)が見られるとマクニールは述べている。

 

病気

 病気の概念の普遍的な核は身体的不調のために期待された仕事ができなくなることだとしている。この身体的不調の多くは寄生生物との遭遇から生じる。

 病原菌の襲来に曝される経験の有無、病気に対する防衛能力の整備が個々人の体内でも各地域でも絶え間なく行われている。そのため、抵抗力と免疫の水準も地域によって高低さまざまである。

 

悪疫の感染

 各種の感染症の病原体も、環境への適応と自己調整を重ねている。宿主間の移動が寄生生物にとっては問題となる。

 下記の場合、宿主となる生物と寄生生物の間に相互の生存が可能となる相互適応の構造が生じる。

  1. 感染症の原因となる寄生生物と宿主との接触が続く 
  2. 何世代も経過する
  3. 宿主となる生物も寄生生物も個体数が多い

 この安定した宿主と寄生生物以外の種に寄生生物が移ろうとした場合などは、激甚な被害をもたらしがちである。(げっ歯類はペスト菌にかかっても問題はほぼないが、人間に感染すれば高い致死率となる。蚊とマラリア原虫と人間なども同じである。)

 媒介する他の生物種を通らず、宿主から宿主に直接感染する伝染病も多数ある。(結核、はしか、天然痘水ぼうそう、百日咳、おたふくかぜ、インフルエンザなど。)現在先進国ではワクチンにより感染や重症化率を下げることができている。しかし、これらの病気を経験したことの無い地域に侵入すると、共同体そのものを破壊・欠陥化するだけの悪影響をもたらす。(かつてのインカやアステカにスペイン人がやってきた時のように。)

 

 病勢の緩やかな慢性伝染病、精神病、高齢に伴う老衰は現代社会の人類の苦痛の大きな部分を占めている。しかし、悪疫の突発と流行はわれわれの先祖に対して恐怖だったはずである。

 

 

まとめ

 社会がミクロとマクロの寄生から成り立つという概念をマクニールは提唱していた。いずれかの寄生のバランス変化がもう一方のバランスの変化をもたらすことがあるという話を後の章で述べている。

 2020年の感染症と国際関係にもこれは当てはまるように思われる。もし余力があれば少しずつ本書について続きを記載していきたい。

 

 

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*1:McNeill,William H. (1976).PLAGUES AND PEOPLES. .(マクニール ウィリアム 佐々木昭夫(訳)(2007).疫病と世界史 中央公論新社,P22

*2:McNeill,William H. (1976).PLAGUES AND PEOPLES. .(マクニール ウィリアム 佐々木昭夫(訳)(2007).疫病と世界史 中央公論新社,P22