mittlee読書雑記帳

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戦争は何者の顔をしているのか:『戦争は女の顔をしていない』

 先日下記のような対談(鼎談)を見かけた。

 小梅けいと氏、速水螺旋人氏、富野由悠季氏のインタビュー記事である。

ddnavi.com

  

 度々インターネット上で(特にはてなでは)、話題になっている書籍『戦争は女の顔をしていない』。元は2015年のノーベル文学賞受賞者、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによる著書だ。

 ウクライナ生まれのベラルーシ人である著者。彼女は第二次正解大戦の独ソ戦に参戦した旧ソヴィエト連邦の女性たちに対してインタビューを行い本書を作り上げた。インタビュー対象者は数百人を超える。

 

 膨大なインタビューから見えてくるのは、一人一人の五感と経験を通じた多様な戦争だった。著者の言を抜粋する。

「(省略)女性たちが戦地で就いた様々な任務を網羅することにした。人は自分の役割を通じて、自分が参加していた出来事をとおして人生を知る。図式的な言い方かもしれないが、看護婦が見た戦争とパン焼き係が見た戦争、空挺部隊から見た戦争、機関銃兵小隊長の戦争はそれぞれが違っている。見えている範囲が異なるのだ。(省略)」*1

 

  漫画版はこのそれぞれの戦争を躍動感を持って描く。『狼と香辛料』の作画である小梅けいと氏が描き、『大砲とスタンプ』の速水螺旋人氏が監修する漫画版は、アレクシエーヴィチに語られるエピソードを視覚として我々の前に見事に現出させる。

 前線の後ろにいる洗濯部隊、石鹸「K」の話を読んだときには、戦場の裏にある人々の営みに、銃弾が飛び交う戦争映画とはまた異なる明確な過去の再現に衝撃を受けた。

 

(2021/08/20 追記:2021年8月のNHK Eテレの「100分de名著」でも『戦争は女の顔をしていない』を取り上げている。)

 

comic-walker.com

 

www.nhk.or.jp

 

 

 アレクシエーヴィチに女性たちが語ったものには二つの戦争があった。一つは表の戦争、地理や戦闘記録いわゆる「男の戦争」である。歴史として男の言葉で語られる、教科書に載る、尊敬される戦勝・栄光の物語。そしてもう一つは「人間の顔をもつ」物語、「女たち」の戦争。個人的な経験や、悲惨な現実、言論が統制されたがゆえに見過された女の言葉、あるいは日本人的に言えば社会の空気を読んで公言されてこなかった戦争である。

 1948年生まれの原著者が従軍時に10代後半-30代だった女性たちの経験談を集めだした頃は1970年代の後半。第二次世界大戦からは30年以上が経過していた。この時点で過去は歴史となり、公的なものとされたエピソードに回収されてしまっていた。多人数の前や男たちの前では、女性たちは個人の経験を語らない。表の戦争のみを語る。アレクシエーヴィチは女性たちと少人数(最も個人的な体験を聞き出しやすいのは2人きりのときである)で語ることで、過去の経験を紐解いていく。

 

 アレクシエーヴィチがまとめた逸話を抜粋すると例えば下記のような話がある。数日間ともに過ごした捕虜数人を捕虜に情を持つ自軍の少年兵の代わりに一人ずつ秘密裏に殺害した女性/前線に行く前に人を殺せないと語ったことで殺害される中年男性/戦争の恐ろしさを理解しておらずチョコレートをカバン一杯に詰めて前線に向かう准医師/女性もの下着が無く男性物の予備を確保したいが意味を理解しない若年の男性曹長に廃棄を命じられた女性兵士/仲間内にも明かさない戦場での秘密の恋/敵に包囲された中で見つからないために、泣く赤子を殺害する命令を出した上官と実行できない部下の兵士たち、自ら手にかける実母/生きたまま焼き殺されるパルチザン、見知らぬふりをする実の両親/ドイツに侵攻後に複数人の女性に対して集団で暴行を働いた大隊/戦勝後に帰ってきたが一時期捕虜になっていたがために翌日に秘密警察に連れていかれて帰ってこなかった夫/地雷を処理する工兵として戦後にも命を失い続けた部隊/帰国後の差別やいじめ、後遺症、etc......

 これらはごくごく一部の逸話に過ぎない。悲惨な逸話の中に、現代の人と変わらないものも並ぶ。ここには、あの日々を生きた人間の顔がある。

 

 戦争の中にあった日常や個人の顔というのは下記のような作品でも描かれる。それぞれの場所や立場で異なるが、そこにはやはり個人の顔もある。そして戦争という大きなシステムに翻弄された人々の顔もある。

海軍めしたき物語 (新潮文庫)
 
戦争の歌がきこえる

戦争の歌がきこえる

  • 作者:佐藤 由美子
  • 発売日: 2020/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 『戦争は女の顔はしていない』の中で特にいたたまれない気持ちになった話がある。検閲でかつて削除されてしまったという逸話だ。 

 

 「戦争が終わったのに人間の命は何の価値もありませんでした。一つ例をあげましょう。仕事帰りのバスの中で、突然叫び声がしましたーー『泥棒よ! 泥棒よ! あたしのハンドバッグを……』バスは停車しました。すぐさま押し合いへし合い。若い将校が男の子を外に引っ張り出しました。そしてその手を膝に乗せて、バシンと腕をまっぷたつに折ってしまったんです。そして将校はまたバスに飛び乗り、わたしたちは何もなかったかのように先に進みました。誰一人、その少年をかばう者はありませんでした。誰も警官を呼ぶでもありません。医者を呼んでやるでも。将校は胸一杯に勲章だのメダルをびっしりつけているんです。あたしが降りようとすると、その将校は急いで先に飛び降りて手を添えました。『どうぞ、お嬢さん』そんなふうに丁重なんです。

 そう、まだ戦争中なのです......みな、戦時中の人たちのまま......」*2

 

 戦争の最中には人間は恐ろしいこと、悲惨なことをするかもしれない。決してその行いを肯定はしない。しかし、極限状況に置かれてみた生物が何をするか分からないという不信は誰もが感じたことがあるだろう。

 他方で、上の戦後の日常の逸話は現代日本人の感覚からすれば理解しがたいものだと思う。おそらく名もあり体格にも優れた将校が、殺されたり大けがを負わされる危険もない環境下で、スリをする子供の腕を問答無用でへし折り、警察も医者も呼ばずに放置する。これは責任と良識のある大人が取る態度として(いや、小学生高学年から中高生という子供であっても)あり得ないものなのではないだろうか。比較するのも関係者に申し訳ないが2020年の日本に子供を捕まえた後に上のような将校のような真似をする人間はおそらくいないはずであると思いたい。読者諸兄もこのような行動をする人間がいたら止めに入るだろうし、間違いなく警察と医師を呼ぶことだろう。

 子供の両手を折る将校と、それを何とも思わない国民と市民、これは戦勝国での話である。この戦争の傷というものを我々は戦争の顔として知っておくべきではないだろうか。

 

 先の将校やバスの乗客のような人々の顔をしないのが平和であるとした場合、現代のBlack Lives Matterの問題で炙り出されたように、アメリカのような先進国でも人を過剰に虐げる者(しかも市民を守るべき警察官がそのような行為に及んだという悲しさがある)がいるのも事実である。治安の維持と、市民の取り扱いへの安全さ、公平さというような別のトピックが多数絡む問題であるため、この問題には深く立ち入らない。周囲の市民はそれに対して無視を決め込まずに抗議することができている分、1940年-50年前後から進歩しているという考え方はできる。しかし、内にこもり、他社への暴力が日常的、組織的行われている国や人が現代にもいるのは事実だ(中国のウイグル人への虐待しかり、日本の入国管理の問題もしかり、他にもいくらでもあるだろう。)。

 

 一方で、極限の戦場においても自軍と敵軍の両方の兵士を、おのれの危険を顧みずに救いに行く衛生兵や医師もいた。相手国の個人の兵士が行った所業を憎みながらも、それでも救うというところに、私は人間の尊厳を感じた。子供を殺すことを強要した人がいれば、弱った親子連れを背負って見捨てなかった人もいたというように。アレクシエーヴィチにこのように語った人がいた。

ねえ、あんた、一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。

 

 アレクシエーヴィチに語った人々の顔。このような顔をしないですべての人が生きていける社会、生活を形作るという課題。これに我々は日々取り組み、答えを探らなければならない。願わくば、その人間の尊厳を、平和な社会の中で誰もが活かして暮らせるように。

 

 

*1: Alexievich,Svetlana (1984,2013).WAR'S UNWOMANLY FACE. Progress Publishers.(アレクシエーヴィチ スヴェトラーナ 伊藤みどり(訳)(2016).戦争は女の顔をしていない 岩波書店,130-131)

*2: Alexievich,Svetlana (1984,2013).WAR'S UNWOMANLY FACE. Progress Publishers.(アレクシエーヴィチ スヴェトラーナ 伊藤みどり(訳)(2016).戦争は女の顔をしていない 岩波書店,37)