mittlee読書と経済雑記ブログ

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自分の中に毒を持て、芸術とは生きること、岡本太郎が考える自分との闘い方

 人は生きていく中で悩む。仕事か、家庭か、人間関係か、健康か。日々通勤と仕事、家に帰っては生計費の支払いに家事(+育児、介護他)と追われる生活の繰り返し。何かに縛られている感じがする。何かの真似事をしている気がする。組織に振り回されている。己を大したことはないと思い、好きになれない等。

 上に列挙した悩みは誰しも多かれ少なかれ持っていると思う。どうにかして現状を打破できないかと思い悩んでいる読者諸氏もいらっしゃるだろう。本ブログの筆者は答えを持ち合わせていないが、岡本太郎は上記の悩みに対して言いたい放題に意見している。30年近く前に。

 

 この記事では、岡本太郎著、『自分の中に毒を持て』を紹介したい。人間の生き様、社会との関わり方について、岡本自身の体験談や洞察を交えながら平易な言葉で意見が語られていく。これを読むことで何か人生のヒントが見つかるかもしれない。

 

自分の中に毒を持て<新装版>

自分の中に毒を持て<新装版>

 

 プレッシャーをかけてくる表紙である。副題はsacré néfaste(フランス語:直訳だと有害な神聖さ。フランスでジョルジュ・バタイユとも若い頃に親交があったという著者岡本なので、聖俗の意で副題を付けているかもしれない)。

  

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

 

 

 岡本太郎は日本の芸術家である。1911年に神奈川県で生まれた。1929年にフランスに渡り、パリで抽象芸術やシュルレアリスム運動に参加。民俗学なども学ぶ。40年に帰国後は42年から中国大陸へ出征。45年の戦後は主に日本で活動。1970年の大阪万博の『太陽の塔』は今も日本中に知られている。1996年没。

 『自分の中に毒を持て』は1993年に出版された著作である。今回読んだのは青春出版社、青春文庫の新装版である。

 

 

目次

 

本書のテーマ

 本書でテーマにしているのは人の生き方、今までの自分を乗り越えるための自分自身との闘いである。芸術というのは生きることそのものである。皆さんもご存じのあのフレーズ、芸術は爆発だについて岡本が語っている言葉を紹介する。

ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。

"芸術は爆発だ"

(中略)

 ところで一般に「爆発」というと(中略)、イメージは不吉でおどろおどろしい。が、私の言う「爆発」はまったく違う。音もしない。物も飛び散らない。

 全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちのほんとうの在り方だ。

*1

  本書の随所で語られる、過激にも思える太郎節の根底には、この「爆発」の考え方がある。

 

迷ったら危険な道に賭ける

 人生に挑み、ほんとうに生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身ともに無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、命は分厚く、純粋にふくらんでくる。

 今までの自分なんか蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。

*2

  岡本は、自分らしくではなく、"人間らしく"生きる道を考えるように呼び掛ける。周囲の状況に甘えて生きるのではない。安易に生きそうになるときは自分を敵だと思うのだと。たとえ結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはないと。

 人生の岐路では、他の人も向かう道、無難な道、安全と思える道を選びがちである。しかし、岡本は危険な道を選んできたと述べる。経済やしがらみ、惰性的な道ではない。人間の全存在、生命それ自体が完全燃焼するような生に賭けるべきではないかという己への問い。それは即ち、人と異なる道、危険な道を選ぶことになる。

 しかし、その道の先は極端に言えば死を意味する(社会的に、経済的に人がいない場所であるのならば。)。それでも社会の分業の中に己を閉じ込めずに、自分が信じる芸術の道に彼は進んだのである。

 彼はこう述べる。

 青年は己の夢にすべてのエネルギーを賭けるべきなのだ。勇気を持って飛び込んだらいい。

 他人の人生をなぞるのではなく、己の人生を生きよと。不成功を恐れてはいけない、自分の夢にどれだけ挑んだか、努力したかが重要だと。安全な道と危険な道を前にして悩むということは、危険な道だけれどそちらに行きたいからに違いないと。ならば進んでみよと。

 ちょっとしたことでもいい。情熱を感じることを始めてみるのだと。三日坊主になってもいい。しかし、「いずれ」と「昔は」を言わないこと。現在に全力を尽くすのだ。

 自己嫌悪なんてして己を甘やかしていないで、自分の惰性ともっと徹底的に戦ってみようと岡本は呼びかけている。

 

個性は出し方

 社会体個という問題は避けて通ることができない。大きな、重い、人間の宿命だ。

  しかし、この闘いはキツイ。妥協、屈辱の結果、欲求不満、いらだち、告発が群がりおこる。(中略)

 世の中の人ほとんどが、おなじ悩みを持っていると言ってもいい。不満かもしれないが、この社会生活以外にどんな生き方があるか。ならば、まともにこの社会というものを見すえ、自分がその中でどういう生き方をすべきか、どういう役割を果たすのか、決めなければならない。

 独りぼっちでも社会の中の自分であることには変わりはない。その社会は矛盾だらけなのだから、その中に生きる以上は、矛盾の中に自分を徹する以外にないじゃないか。

 そのために社会に入れられず、不幸な目にあったとしても、それは自分が純粋に生きているから不幸なんだ。純粋に生きるための不幸こそ、ほんとうの生きがいなのだと覚悟を決めるほかない。

*3

  「出る釘は打たれる」という諺から始まり、個人の社会への向き合い方について岡本は語る。相手が教師でも、暴力的なガキ大将でも理不尽なことには抵抗する、自分の芯は貫くというのが岡本の生き方だ。才能のあるなしに関わらず、自分として純粋に生きることが人間の本当の生き方だと述べている。

 人生には世渡りと、本当に生き抜く道との二つがあるはずだと岡本は語る。処世的な道だけを意識するのではいけない。単純なようで複雑な人生を強力に意識し、操作することが必要なのだ。

 全体的、全運命的責任を取ること。自由に、明朗に、周囲を気にしないでのびのびと発言し行動する。難しいことだが苦痛であればあるほど、挑み、乗り越え、自己を打ち出さなければならない。たとえ下手でも挑むのである。

 挑み続けて世の中が変わらなくとも、自分自身は変わる。岡本は世の中が変わらなくても絶望的にならずに挑み続けることで生きがいを貫いていた。

 

愛し方、愛され方

 岡本はここでは恋愛とその他の愛(家族愛など)について語る。まずは恋愛である。

 僕の場合は、どっちの方がより深く愛しているなんて特に意識したことはない。恋愛だって芸術だって、おなじだ。一体なんだ。全身をぶつけること。そこに素晴らしさがあると思う。

 だから、恋愛も自分をぶつける対象としてとらえてきた。恋愛だからどうだとか、こだわって考えたことはない。

 *4

  運命的な出会いとは、相手を充たすと同時に自分が本当の自分になることだと述べている。恋愛とは自分をぶつける対象である。

 岡本は結婚という形式が好きではないと述べる。曰く、男と女が互いを縛りあう。〇DKという狭い境界に引きこもる。人間の可能性をつぶし合う。結婚という不自由を言い訳に自らが自由を実現できないことのゴマカシにする、妻子があると社会的なすべてのシステムに順応してしまう。一人ならうまくいこうが死のうが思いのままの行動を取れるetc......。

 夫婦である以前の、無条件な男、女でいる立場。新鮮な関係にあるようにしていかなければ一緒にいる意味がないとしている。最も親密な相手であると同時に、お互いが外から眺め返すという視点を忘れてはいけない。

 

 その他の愛についても、岡本は語っている。

(前略)実際にそんなことは不可能だけれど、わが亭主、わが親、わが子って、小さく仕切ってしまうのは、つまらない生き方だと思う。

 そうでなく、世界中の子供はみんな自分の息子だ、世界中の親はみんな自分の親だ、そういうおおらかな豊かな気持ちを持ちたいと思う。

*5

 小さな愛に閉じこもってはならないと述べる。

 親子愛についてはこう語る。

ぼくは生きるからには、歓喜がなければならないと思う。歓喜は対決や緊張感のないところからは決して生まれてこない。そういった意味で、親子の間にも、人間と人間の対決がなければならない。 

*6

 この対決とは、物理的に傷付けあうことでは決していない。大人が一段上から語るのではなく、子供にであっても対等に一人の人間として接することを良しとしている言葉である。

 

常識人間を捨てる、興奮と喜びに満ちた自分になる

 「美しい」と「きれい」は異なる。「きれい」は体裁のいいものである。しかし、「美しい」は無条件で絶対的なものである。ひたすら生命がひらき高揚した時に美しいという感動が起こる。それは一見醜い相を呈することがある。

 最も人間的な表情を、激しく、深く、豊かにうち出す。その激しさが美しいのである。高貴なのだ。美は人間の生き方の最も緊張した瞬間に、戦慄的にたちあらわれる。

*7

  

 岡本は、芸術・政治・経済の三権分立が今この世界で必要とされていると提唱する(もちろんモンテスキューの政治の三権分立、「立法」「司法」「行政」のオマージュである。)。ここでいう「芸術」とは、「人間」のことである。

(前略)素っ裸で、豊かに、無条件に生きること。

 失った人間の原点をとりもどし、強烈に、ふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。

 もっと政治が芸術の香気を持ち、経済が無償と思われるような夢に賭ける。

 (中略)あまりにも非人間的なあり方に「人間存在」と息吹をふきいれ、生きがいを奪回すべきなのである。

*8

 政治と経済の馴れ合いがすべてを堕落させる。ここに「芸術」によって生命力・精神を生き返らせる必要があると岡本は述べる(岡本は技術主義と経済優先による人口爆発や環境破壊等についても懸念を述べている。)。

 本書のテーマにて記述済みだが、岡本は生きるということを本来無目的非合理なものだと述べている。だからこそ生きがいがあり、情熱がわくのだと。

 例えば人は祭りのときに日常の自分とは異なる濃い生命感に生きる。「いのち」を確認し、全存在として開く。

ぼくは今まで一度も職業を持つことが、卑しいなどと言ったことはない。(中略)

 しかし、そのために、全人間として生きないで、職業だけにとじこめられてしまうと、結局は社会システムの部品になってしまう。

 それがいけない、つまらないことだ。

 ぼくの言う三権分立の「人間」=「芸術」が抜けてしまう。現代社会の一番困った、不幸なポイントだ。

*9

 

 岡本太郎は、今、現時点で人間の一人ひとりはいったい本当に生きているのだろうかと問題提起をしている。個人財産やマイホームの無事安全ばかりを願うのでは卑しい。生きがいを持って瞬間瞬間に自分をひらいて生きているかと問う。

 人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。

 死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。現在に、強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。

*10

 己を殺す決意と情熱をもって挑み、危険の中で生きぬくことを岡本は説いている。

 

まとめ

 日常と祭りの話や死との直面など、バタイユを連想する部分もある。

 本書では一貫して、人間として何かに挑んで生きているか、生きがいを持っているかということを問うている。しかし、何かに挑むということは安全から己を遠ざけ、死に向かわしめる毒でもある。現代社会においては甘美だが危険なものに違いない。

 日々の中に迷いを抱き、それでも何かを成し遂げたいとき、岡本太郎の言葉は(結果は保証してくれないが、)私たちの背中を押してくれるかもしれない。 

 

*1:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P214-P216

*2:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P11

*3:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P116-P119

*4:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P176

*5:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P192

*6:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P193

*7:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P204

*8:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P212-P213

*9:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P241

*10:岡本太郎, (1993).『自分の中に毒を持て』 青春出版社, P246