mittlee読書と経済雑記ブログ

読書がメインのブログです。経済、社会、語学について気になったことを記載します。

愛するということ、それは技術である

 愛とは何か。語り尽くされたテーマのようであるが、未だに人々が語り続けるテーマである。

 エーリッヒ・フロム著、『愛するということ』。こちらの改訳・新装版が書店に並んでいた。昔から気になっていた書籍であり、この度手に取ってみた。

 

 今回購入したのはこちら。

愛するということ

愛するということ

 

 

 話題になり続けているのはこちら。約30年前の書籍。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 

 著者のエーリッヒ・フロムはドイツの社会心理学者である。1900年にドイツ・フランクフルトに生まれた。1933年に渡米し、後に帰化。さらにメキシコに移住した。スイスにて1980年没。 マルクスヴェーバーフロイト精神分析を結び付けた「新フロイト派」とされている。

 自由な個人からファシズムに至るまでの精神を分析した『自由からの逃走』は有名である。

 

 

 

 

本書のテーマ

 さて、『愛するということ』に戻る。本書は、愛とは技術であると説く。世間一般に語られる(いかにすればモテるかなどの)愛される方法は本書の主題ではない。愛される方法を期待して本書を読み始めると、出合頭にビンタされるかのような感覚になる。

 愛するという技術について安易な教えを期待してこの本を読む人は、がっかりするだろう。この本は、そうした期待を裏切って、こう主張する――愛は、「その人がどれくらい成熟しているかとは無関係に、誰もが簡単に浸れる感情」ではない

 この本は読者にこう訴える――人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、けっしてうまくいかない。特定の個人への愛から満足を得るためには、隣人を愛せなくてはならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律がなくてはならない。(省略)

*1

 

 フロムは、生きることが技術であるのと同じように、愛も技術であると説く。よって、他の技術と同じように下記の2つを手段にて習得する必要があると語る。

  • 理論に精通すること
  • その習練に励むこと

 

 

愛はなぜ必要なのか 

 そもそも愛はなぜ必要なのか。人は孤立に不安を覚える生き物であるとフロムは語る。愛以外の、それを克服する手段をフロムは3つ列挙する。

 例えば人は興奮状態による合一体験、揺籃期の人類であれば自然との一体感、それを得るための祭りや酒などいわゆる祝祭的興奮状態に頼る。興奮状態による合一体験は、強烈であり、精神と肉体の両者に作用するが、長続きはしない。

 他方で最も頻繁にみられる解決方法として、集団、慣習、しきたり、信仰への同調に基づいた合一がある。こちらは長続きすることが特徴である。集団に同調すること、自我を消すことで孤独から救われようとするのは現代(1950年代の書ではあるが、2020年でも大差はないかもしれない。)において最も一般的な方法だとされる。

 独裁体制では威嚇と脅迫を用いて人々を同調させる。

 民主主義体制では集団に同調したいという欲求を自身が持っていることに気づかずに同調し、みんなと意見が一致するときは「自分の」意見の正しさが証明されたと考える(これも同調である)。現代社会の仕組みは人間の標準化を必要としており、没個性的な標準化が「平等」と呼ばれているとする。

 集団への同調に加えて、現代社会の生活は仕事も娯楽も型どおりのものになっているという点を孤立から逃れるためのもうひとつの要素として挙げる。仕事の内容だけでなく、快活さ、寛容、信頼性、野心、誰とでも衝突せずにうまくやっていく能力など感情面ですら型が決められていると述べている。

 そして3つ目の一体感を得る方法が、創造的活動である。芸術的なものや職人的なものもあるが、創造する人間は創造の過程で世界と一体化する。

 以上3つ挙げたが、それぞれ、一時的、偽り、人間どうしではないという欠点を挙げる。一体感に対する完全な答えは人間どうしの一体化、他社との融合、すなわち愛にあると述べている。

 

成熟した愛

 愛の形として、2つの大別をフロムは行っている。

  1. 共棲的結合
  2. 熟慮の末の答えとしての成熟した愛

 

 共棲的結合はマゾヒスティックやサディスティックのように、互いに依存することになるとする。相手に服従する、または相手を服従させるという行為は一人では行うことはできない。フロムは共棲的結合には批判的である。

 他方、成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合であるとする。

愛は、人間のなかにある能動的な力である。人を他の人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりでありつづけるというパラドックスが起きる。

*2

 

 愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。これがフロムの考え方である(一方的にいつまでも相手に尽くし続けるのはマゾヒスティック、与えたことに見返りを期待して怒るというのはサディスティックとなるのかもしれない)。たがいに相手の中に芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うこと。相手を偶像ではなく、人間を人間とみなすこと。愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない。与えるという意味で人を愛せるかどうかは、その人の人格がどれくらい発達しているかによる。

 

愛に共通する4つの基本要素 

 愛には下記の4つの共通する性質があるとする。

  1. 配慮
  2. 責任
  3. 尊重

 相手を気にかける積極的な配慮がある。それは母の子供に対する愛 、食事や風呂など快適な環境を与える行動が分かりやすい例とする。動物や花に対する愛情でも同じことが当てはまる。

 配慮と気遣いには責任が伴う。これは外側から押し付けられる義務ではなく、完全に自発的な行為として語られる。愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、仲間にも責任を感じる。

 尊重とは、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である。責任は支配や所有に堕落しがちである。尊重は、他人がその人らしく成長発展していくように気づかうことあって、他人を利用するということではない。自分が自立していなければ人を尊重することはできない。

 そして、相手のことを知る必要がある、その人のことを知らなければ配慮も責任もあてずっぽうになる。他方で、配慮や気遣いがなければ表面的な知に終わる。

 

親子の愛

 成熟した自己の獲得にあたり、(概念的な)親子の愛をフロムは語る。幼稚な愛は「愛されているから愛する」、成熟した愛は「愛するから愛される」という原則に従うとする。子供が成熟し、外部の父母から独立し、自身で母親的良心と父親的良心を併せ持った状態を理想とする。つまり、「どんな罪を犯しても私の愛はなくならないし、お前の人生の幸福を願う」という心であり、「間違ったことをしたからお前は責任を取らねばならない。私に好かれたければ生き方を変えるべきだ」という心の統合が行われる。

 

愛の対象

 愛とは世界全体に対して人がどうかかわるかを決定する態度であり、性格の方向性である。正しい対象さえ見つかればあとは上手くいくと思ってはならない。しかし、愛する対象によって愛にも様々な種類がある。

  1. 友愛
  2. 母性愛
  3. 恋愛
  4. 自己愛
  5. 神への愛

 

 友愛とはあらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、知であり、その人の人生をよりよいものにしたいという願望である。人類全体に対する愛であり、排他的なところが全くない。無力な者、貧しい者や、よそものに対する愛こそが友愛の始まりである。身内に対する愛よりもこれは難しい。

 母性愛は子どもの生命と要求に対する無条件の肯定である。一つの側面は子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な気遣いと責任である。他方の側面は生きることへの愛、人生への肯定の感覚を子供に抱かせることである。ここで課題となりがちなのは、子供の巣立ちである。別れることに耐え忍ぶだけではなく、それを望み、後押ししなければならない。別離の後も変わらず愛し続けられる力である。これは徹底した利他主義であり、愛する者の幸福以外何も望まない能力が求められる。

 恋愛は、他の人間と完全に融合したいという強い願望である。友愛や母性愛と異なり、排他的な性質を持つ。恋愛はもっとも誤解されやすい。これは性欲ではない。二人だけよければよいというのは二倍の利己主義に過ぎない。恋愛は排他的ではあるが、相手を通して人類全体、さらにはこの世に生きるすべての者を人は愛する。恋愛は意志に基づいた行為であるべきであり、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだとする。恋愛とは二人の意志の行為である。

 自己愛は自分の個性を尊重し、自分を愛し、理解することである。これは利己主義の正反対にある。自分を愛することと他人を尊重し愛することは不可分の関係だ。他の愛する対象と自分は繋がっている。「自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。*3

 神への愛も人間への愛と同じく、孤立を克服して合一を達成したいという欲求に由来している。神への愛は、人間がどの程度まで成熟したかによって性質が変化する。無条件の愛をもたらす母親から、横暴な部族長、愛する父親、自身の決めた規律に縛られる父親、という父母像から進化していく。正義・真理・愛という原理の象徴になる。人間は愛と正義の原理を自分の中に取り込み、神と一つになる。最終的には詩的、象徴的にしか神について語らないようになる。

 

 本章では東洋と西洋の神のあり方や、思考と行為のどちらに重きを置くかなどのテーマについても語られる。興味がある方は一読をお勧めする。

 

愛の現代社会における崩壊

 現代社会(繰り返しになるが1950年代)では上記の各愛が偽りの愛に取って代わられているとフロムは語る。

 現代資本主義社会は政治的自由と市場原理に基づいている。ここで必要とする人は以下のような人間だ。大人数で円滑に協力し合う、飽くことなき消費をしたがり、好みが標準化され、他からの影響を受けやすく、行動が予測しやすく、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令には進んで従い期待に添うように行動し、摩擦を起こすことなく、社会という機械に自分を進んではめこむような人間現代社会が必要としているとする。

 結果、現代人は自分自身からも仲間からも自然からも疎外されているとする。身の安全を確保しようとし、考えも感情も行動も周囲と違わないようにしようと努める。それでいて孤独で、孤独を克服できないときに必ずやってくる不安定感・不安感・罪悪感におびえている。

 成熟した愛ではなく、「人格のパッケージ」をできるだけ高い値段で売ることが愛と勘違いされ、それに人々は血眼である。

 (恋愛市場、婚活市場という言い方がある2020年もここの状況は変わっていないように感じる。)

 

愛の習練

 というわけで、愛の習練方法に話は移る。しかし、処方箋は提示されない。自分で経験する以外にはないとするが、愛の技術への前提条件とアプローチの習練について述べられる。

 

 まずは前提条件である。

  1. 規律
  2. 集中
  3. 忍耐
  4. 技術の習得への最大限の関心

 

 4つを意訳しよう。

 規律は気の向いた時だけではなく、日常規則的に実施することである。外から課されるのではなく、自ら課さなければならない。

 集中は「ながら」をしない、逆説的ではあるがひとりでいられる能力を身に着けることである(酒を飲んだり、テレビや映画やスマホいじりをしていては一人とはみなされない)。周囲の人間に対する敏感さを身に着けること、変化に気づくこともここに入る。まずは自身の変化に気づくことから練習をする。

 忍耐はすぐに結果を求めないこと。

 関心は、愛の技術を重要なものだとみなすことである。

 

 

 愛に特有の事項として、フロムは下記のものを追加する。

  1. ナルシシズムの克服(客観と理性)
  2. 「信じる」こと(信念と勇気)

 

 ナルシシズムに囚われていると、自身の内側に存在するものだけを現実として経験することになるが、これは愛の条件を満たせない。人間や事物をありのままに見て、客観的なイメージを自分が欲望と恐怖で作り上げたイメージと区別しなければならない。そして客観的に考えるための能力が理性であり、この前提は謙虚さである。全知全能への夢から覚め、謙虚さを身につけなければならない。

 

 「信じる」ということは、理にかなった信念を信じることである。知性や感情を働かせ、事実を積み重ねなけらばならない。道理にかなわぬ権威への服従である根拠のない信念と区別しなければならない。

 科学であれば、検証の結果信頼できる仮説、道理にかなった理論を少なくともその正しさが一般に認められるまで信じることが理にかなった信念である。これは自身の経験、思考力、観察力、判断力に根ざしている。他方で根拠のない信念は、ある権威や多数の人々が言っているからという理由だけで何かを真理として受け入れることである。

 人兼関係においても信念は見られる。たとえば、生命や人間の尊厳に対する畏敬の念はその人の一部分であって、変わることはないとフロムは述べている。「私は私だ」という確信を支えているのもこの芯である。また、他人の可能性や人類を「信じる」ことにも繋がる。信念を持つには勇気がいる。これは危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。

 信念と勇気の習練は、自身がどのようなときに信念を失ってずるく立ち回るかを知ることから始まる。どんな口実で正当化し、信念を失っていくかを調べる必要がある。

 

 人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなくてはならない。そしてそのためには、生活の他の面でも生産的かつ能動的でなければならない。愛以外の面で生産的でなかったら、愛においても生産的にはなれない。

*4

 

愛の技術と社会的な側面

 本書の結びはフロムの社会に対する問題提起である。

 資本主義社会は公平の倫理規範で成り立っている。しかし、公平と愛とは異なる。利己主義が公平の倫理によって縛られているだけの社会で愛の習練は可能だろうか。愛がきわめて個人的で些細な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならないのではないか。

 現代社会は企業の経営陣と職業政治家によって運営され、人々は大衆操作により操られている。より大量の生産と消費という手段が生きる目的となってしまっている。いまや人間はロボットである。自分の中にあるきわめて人間的な資質や社会的な役割にたいする究極的な関心をもっていない。

 

 人を愛せるようになるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。経済という機構に奉仕するのではなく、経済機構が人間に奉仕しなければならない。たんに利益を分配するだけでなく、経験や仕事も分配できるようにならなければならない。人を愛するという社交的な本性と、社会生活とが、分離するのではなく一体化するような、そんな社会をつくりあげなくてはならない。

*5

 

 身近な人に対しても愛するということの実践は難しい。この信念と勇気に向き合い続けられるかは不安である。そして苦境にある人に対するバッシングや、無関心、理念や制度に対するデマに依拠した攻撃を見ることが多い昨今の世の中。世間や権威に阿諛追従するのではなく、歴史や人の在り方を信じて生きられる人でありたいと思う。諦めずに色々な愛の形を実践すること。それが人類全体に対する愛の態度なのだと思う。

 

 フロムは筆を以下のように置く。

 

例外的・個人的な現象としてだけでなく、社会的な現象としても、愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。

*6

 

 

 

 

 

*1:: Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.(フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P3)

*2:Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.(フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P39

*3:Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.(フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P96

*4:Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P191-P192

*5:Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.(フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P197

*6:Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.(フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P198

戦争は何者の顔をしているのか:『戦争は女の顔をしていない』

 先日下記のような対談(鼎談)を見かけた。

 小梅けいと氏、速水螺旋人氏、富野由悠季氏のインタビュー記事である。

ddnavi.com

  

 度々インターネット上で(特にはてなでは)、話題になっている書籍『戦争は女の顔をしていない』。元は2015年のノーベル文学賞受賞者、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによる著書だ。

 ウクライナ生まれのベラルーシ人である著者。彼女は第二次正解大戦の独ソ戦に参戦した旧ソヴィエト連邦の女性たちに対してインタビューを行い本書を作り上げた。インタビュー対象者は数百人を超える。

 

 膨大なインタビューから見えてくるのは、一人一人の五感と経験を通じた多様な戦争だった。著者の言を抜粋する。

「(省略)女性たちが戦地で就いた様々な任務を網羅することにした。人は自分の役割を通じて、自分が参加していた出来事をとおして人生を知る。図式的な言い方かもしれないが、看護婦が見た戦争とパン焼き係が見た戦争、空挺部隊から見た戦争、機関銃兵小隊長の戦争はそれぞれが違っている。見えている範囲が異なるのだ。(省略)」*1

 

  漫画版はこのそれぞれの戦争を躍動感を持って描く。『狼と香辛料』の作画である小梅けいと氏が描き、『大砲とスタンプ』の速水螺旋人氏が監修する漫画版は、アレクシエーヴィチに語られるエピソードを視覚として我々の前に見事に現出させる。

 前線の後ろにいる洗濯部隊、石鹸「K」の話を読んだときには、戦場の裏にある人々の営みに、銃弾が飛び交う戦争映画とはまた異なる明確な過去の再現に衝撃を受けた。

 

(2021/08/20 追記:2021年8月のNHK Eテレの「100分de名著」でも『戦争は女の顔をしていない』を取り上げている。)

 

comic-walker.com

 

www.nhk.or.jp

 

 

 アレクシエーヴィチに女性たちが語ったものには二つの戦争があった。一つは表の戦争、地理や戦闘記録いわゆる「男の戦争」である。歴史として男の言葉で語られる、教科書に載る、尊敬される戦勝・栄光の物語。そしてもう一つは「人間の顔をもつ」物語、「女たち」の戦争。個人的な経験や、悲惨な現実、言論が統制されたがゆえに見過された女の言葉、あるいは日本人的に言えば社会の空気を読んで公言されてこなかった戦争である。

 1948年生まれの原著者が従軍時に10代後半-30代だった女性たちの経験談を集めだした頃は1970年代の後半。第二次世界大戦からは30年以上が経過していた。この時点で過去は歴史となり、公的なものとされたエピソードに回収されてしまっていた。多人数の前や男たちの前では、女性たちは個人の経験を語らない。表の戦争のみを語る。アレクシエーヴィチは女性たちと少人数(最も個人的な体験を聞き出しやすいのは2人きりのときである)で語ることで、過去の経験を紐解いていく。

 

 アレクシエーヴィチがまとめた逸話を抜粋すると例えば下記のような話がある。数日間ともに過ごした捕虜数人を捕虜に情を持つ自軍の少年兵の代わりに一人ずつ秘密裏に殺害した女性/前線に行く前に人を殺せないと語ったことで殺害される中年男性/戦争の恐ろしさを理解しておらずチョコレートをカバン一杯に詰めて前線に向かう准医師/女性もの下着が無く男性物の予備を確保したいが意味を理解しない若年の男性曹長に廃棄を命じられた女性兵士/仲間内にも明かさない戦場での秘密の恋/敵に包囲された中で見つからないために、泣く赤子を殺害する命令を出した上官と実行できない部下の兵士たち、自ら手にかける実母/生きたまま焼き殺されるパルチザン、見知らぬふりをする実の両親/ドイツに侵攻後に複数人の女性に対して集団で暴行を働いた大隊/戦勝後に帰ってきたが一時期捕虜になっていたがために翌日に秘密警察に連れていかれて帰ってこなかった夫/地雷を処理する工兵として戦後にも命を失い続けた部隊/帰国後の差別やいじめ、後遺症、etc......

 これらはごくごく一部の逸話に過ぎない。悲惨な逸話の中に、現代の人と変わらないものも並ぶ。ここには、あの日々を生きた人間の顔がある。

 

 戦争の中にあった日常や個人の顔というのは下記のような作品でも描かれる。それぞれの場所や立場で異なるが、そこにはやはり個人の顔もある。そして戦争という大きなシステムに翻弄された人々の顔もある。

海軍めしたき物語 (新潮文庫)
 
戦争の歌がきこえる

戦争の歌がきこえる

  • 作者:佐藤 由美子
  • 発売日: 2020/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 『戦争は女の顔はしていない』の中で特にいたたまれない気持ちになった話がある。検閲でかつて削除されてしまったという逸話だ。 

 

 「戦争が終わったのに人間の命は何の価値もありませんでした。一つ例をあげましょう。仕事帰りのバスの中で、突然叫び声がしましたーー『泥棒よ! 泥棒よ! あたしのハンドバッグを……』バスは停車しました。すぐさま押し合いへし合い。若い将校が男の子を外に引っ張り出しました。そしてその手を膝に乗せて、バシンと腕をまっぷたつに折ってしまったんです。そして将校はまたバスに飛び乗り、わたしたちは何もなかったかのように先に進みました。誰一人、その少年をかばう者はありませんでした。誰も警官を呼ぶでもありません。医者を呼んでやるでも。将校は胸一杯に勲章だのメダルをびっしりつけているんです。あたしが降りようとすると、その将校は急いで先に飛び降りて手を添えました。『どうぞ、お嬢さん』そんなふうに丁重なんです。

 そう、まだ戦争中なのです......みな、戦時中の人たちのまま......」*2

 

 戦争の最中には人間は恐ろしいこと、悲惨なことをするかもしれない。決してその行いを肯定はしない。しかし、極限状況に置かれてみた生物が何をするか分からないという不信は誰もが感じたことがあるだろう。

 他方で、上の戦後の日常の逸話は現代日本人の感覚からすれば理解しがたいものだと思う。おそらく名もあり体格にも優れた将校が、殺されたり大けがを負わされる危険もない環境下で、スリをする子供の腕を問答無用でへし折り、警察も医者も呼ばずに放置する。これは責任と良識のある大人が取る態度として(いや、小学生高学年から中高生という子供であっても)あり得ないものなのではないだろうか。比較するのも関係者に申し訳ないが2020年の日本に子供を捕まえた後に上のような将校のような真似をする人間はおそらくいないはずであると思いたい。読者諸兄もこのような行動をする人間がいたら止めに入るだろうし、間違いなく警察と医師を呼ぶことだろう。

 子供の両手を折る将校と、それを何とも思わない国民と市民、これは戦勝国での話である。この戦争の傷というものを我々は戦争の顔として知っておくべきではないだろうか。

 

 先の将校やバスの乗客のような人々の顔をしないのが平和であるとした場合、現代のBlack Lives Matterの問題で炙り出されたように、アメリカのような先進国でも人を過剰に虐げる者(しかも市民を守るべき警察官がそのような行為に及んだという悲しさがある)がいるのも事実である。治安の維持と、市民の取り扱いへの安全さ、公平さというような別のトピックが多数絡む問題であるため、この問題には深く立ち入らない。周囲の市民はそれに対して無視を決め込まずに抗議することができている分、1940年-50年前後から進歩しているという考え方はできる。しかし、内にこもり、他社への暴力が日常的、組織的行われている国や人が現代にもいるのは事実だ(中国のウイグル人への虐待しかり、日本の入国管理の問題もしかり、他にもいくらでもあるだろう。)。

 

 一方で、極限の戦場においても自軍と敵軍の両方の兵士を、おのれの危険を顧みずに救いに行く衛生兵や医師もいた。相手国の個人の兵士が行った所業を憎みながらも、それでも救うというところに、私は人間の尊厳を感じた。子供を殺すことを強要した人がいれば、弱った親子連れを背負って見捨てなかった人もいたというように。アレクシエーヴィチにこのように語った人がいた。

ねえ、あんた、一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。

 

 アレクシエーヴィチに語った人々の顔。このような顔をしないですべての人が生きていける社会、生活を形作るという課題。これに我々は日々取り組み、答えを探らなければならない。願わくば、その人間の尊厳を、平和な社会の中で誰もが活かして暮らせるように。

 

 

*1: Alexievich,Svetlana (1984,2013).WAR'S UNWOMANLY FACE. Progress Publishers.(アレクシエーヴィチ スヴェトラーナ 伊藤みどり(訳)(2016).戦争は女の顔をしていない 岩波書店,130-131)

*2: Alexievich,Svetlana (1984,2013).WAR'S UNWOMANLY FACE. Progress Publishers.(アレクシエーヴィチ スヴェトラーナ 伊藤みどり(訳)(2016).戦争は女の顔をしていない 岩波書店,37)

 

 

 

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