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愛するということ、それは技術である

 愛とは何か。語り尽くされたテーマのようであるが、未だに人々が語り続けるテーマである。

 エーリッヒ・フロム著、『愛するということ』。こちらの改訳・新装版が書店に並んでいた。昔から気になっていた書籍であり、この度手に取ってみた。

 

 今回購入したのはこちら。

愛するということ

愛するということ

 

 

 話題になり続けているのはこちら。約30年前の書籍。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 

 著者のエーリッヒ・フロムはドイツの社会心理学者である。1900年にドイツ・フランクフルトに生まれた。1933年に渡米し、後に帰化。さらにメキシコに移住した。スイスにて1980年没。 マルクスヴェーバーフロイト精神分析を結び付けた「新フロイト派」とされている。

 自由な個人からファシズムに至るまでの精神を分析した『自由からの逃走』は有名である。

 

 

 

 

本書のテーマ

 さて、『愛するということ』に戻る。本書は、愛とは技術であると説く。世間一般に語られる(いかにすればモテるかなどの)愛される方法は本書の主題ではない。愛される方法を期待して本書を読み始めると、出合頭にビンタされるかのような感覚になる。

 愛するという技術について安易な教えを期待してこの本を読む人は、がっかりするだろう。この本は、そうした期待を裏切って、こう主張する――愛は、「その人がどれくらい成熟しているかとは無関係に、誰もが簡単に浸れる感情」ではない

 この本は読者にこう訴える――人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、けっしてうまくいかない。特定の個人への愛から満足を得るためには、隣人を愛せなくてはならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律がなくてはならない。(省略)

*1

 

 フロムは、生きることが技術であるのと同じように、愛も技術であると説く。よって、他の技術と同じように下記の2つを手段にて習得する必要があると語る。

  • 理論に精通すること
  • その習練に励むこと

 

 

愛はなぜ必要なのか 

 そもそも愛はなぜ必要なのか。人は孤立に不安を覚える生き物であるとフロムは語る。愛以外の、それを克服する手段をフロムは3つ列挙する。

 例えば人は興奮状態による合一体験、揺籃期の人類であれば自然との一体感、それを得るための祭りや酒などいわゆる祝祭的興奮状態に頼る。興奮状態による合一体験は、強烈であり、精神と肉体の両者に作用するが、長続きはしない。

 他方で最も頻繁にみられる解決方法として、集団、慣習、しきたり、信仰への同調に基づいた合一がある。こちらは長続きすることが特徴である。集団に同調すること、自我を消すことで孤独から救われようとするのは現代(1950年代の書ではあるが、2020年でも大差はないかもしれない。)において最も一般的な方法だとされる。

 独裁体制では威嚇と脅迫を用いて人々を同調させる。

 民主主義体制では集団に同調したいという欲求を自身が持っていることに気づかずに同調し、みんなと意見が一致するときは「自分の」意見の正しさが証明されたと考える(これも同調である)。現代社会の仕組みは人間の標準化を必要としており、没個性的な標準化が「平等」と呼ばれているとする。

 集団への同調に加えて、現代社会の生活は仕事も娯楽も型どおりのものになっているという点を孤立から逃れるためのもうひとつの要素として挙げる。仕事の内容だけでなく、快活さ、寛容、信頼性、野心、誰とでも衝突せずにうまくやっていく能力など感情面ですら型が決められていると述べている。

 そして3つ目の一体感を得る方法が、創造的活動である。芸術的なものや職人的なものもあるが、創造する人間は創造の過程で世界と一体化する。

 以上3つ挙げたが、それぞれ、一時的、偽り、人間どうしではないという欠点を挙げる。一体感に対する完全な答えは人間どうしの一体化、他社との融合、すなわち愛にあると述べている。

 

成熟した愛

 愛の形として、2つの大別をフロムは行っている。

  1. 共棲的結合
  2. 熟慮の末の答えとしての成熟した愛

 

 共棲的結合はマゾヒスティックやサディスティックのように、互いに依存することになるとする。相手に服従する、または相手を服従させるという行為は一人では行うことはできない。フロムは共棲的結合には批判的である。

 他方、成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合であるとする。

愛は、人間のなかにある能動的な力である。人を他の人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりでありつづけるというパラドックスが起きる。

*2

 

 愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。これがフロムの考え方である(一方的にいつまでも相手に尽くし続けるのはマゾヒスティック、与えたことに見返りを期待して怒るというのはサディスティックとなるのかもしれない)。たがいに相手の中に芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うこと。相手を偶像ではなく、人間を人間とみなすこと。愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない。与えるという意味で人を愛せるかどうかは、その人の人格がどれくらい発達しているかによる。

 

愛に共通する4つの基本要素 

 愛には下記の4つの共通する性質があるとする。

  1. 配慮
  2. 責任
  3. 尊重

 相手を気にかける積極的な配慮がある。それは母の子供に対する愛 、食事や風呂など快適な環境を与える行動が分かりやすい例とする。動物や花に対する愛情でも同じことが当てはまる。

 配慮と気遣いには責任が伴う。これは外側から押し付けられる義務ではなく、完全に自発的な行為として語られる。愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、仲間にも責任を感じる。

 尊重とは、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である。責任は支配や所有に堕落しがちである。尊重は、他人がその人らしく成長発展していくように気づかうことあって、他人を利用するということではない。自分が自立していなければ人を尊重することはできない。

 そして、相手のことを知る必要がある、その人のことを知らなければ配慮も責任もあてずっぽうになる。他方で、配慮や気遣いがなければ表面的な知に終わる。

 

親子の愛

 成熟した自己の獲得にあたり、(概念的な)親子の愛をフロムは語る。幼稚な愛は「愛されているから愛する」、成熟した愛は「愛するから愛される」という原則に従うとする。子供が成熟し、外部の父母から独立し、自身で母親的良心と父親的良心を併せ持った状態を理想とする。つまり、「どんな罪を犯しても私の愛はなくならないし、お前の人生の幸福を願う」という心であり、「間違ったことをしたからお前は責任を取らねばならない。私に好かれたければ生き方を変えるべきだ」という心の統合が行われる。

 

愛の対象

 愛とは世界全体に対して人がどうかかわるかを決定する態度であり、性格の方向性である。正しい対象さえ見つかればあとは上手くいくと思ってはならない。しかし、愛する対象によって愛にも様々な種類がある。

  1. 友愛
  2. 母性愛
  3. 恋愛
  4. 自己愛
  5. 神への愛

 

 友愛とはあらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、知であり、その人の人生をよりよいものにしたいという願望である。人類全体に対する愛であり、排他的なところが全くない。無力な者、貧しい者や、よそものに対する愛こそが友愛の始まりである。身内に対する愛よりもこれは難しい。

 母性愛は子どもの生命と要求に対する無条件の肯定である。一つの側面は子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な気遣いと責任である。他方の側面は生きることへの愛、人生への肯定の感覚を子供に抱かせることである。ここで課題となりがちなのは、子供の巣立ちである。別れることに耐え忍ぶだけではなく、それを望み、後押ししなければならない。別離の後も変わらず愛し続けられる力である。これは徹底した利他主義であり、愛する者の幸福以外何も望まない能力が求められる。

 恋愛は、他の人間と完全に融合したいという強い願望である。友愛や母性愛と異なり、排他的な性質を持つ。恋愛はもっとも誤解されやすい。これは性欲ではない。二人だけよければよいというのは二倍の利己主義に過ぎない。恋愛は排他的ではあるが、相手を通して人類全体、さらにはこの世に生きるすべての者を人は愛する。恋愛は意志に基づいた行為であるべきであり、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだとする。恋愛とは二人の意志の行為である。

 自己愛は自分の個性を尊重し、自分を愛し、理解することである。これは利己主義の正反対にある。自分を愛することと他人を尊重し愛することは不可分の関係だ。他の愛する対象と自分は繋がっている。「自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。*3

 神への愛も人間への愛と同じく、孤立を克服して合一を達成したいという欲求に由来している。神への愛は、人間がどの程度まで成熟したかによって性質が変化する。無条件の愛をもたらす母親から、横暴な部族長、愛する父親、自身の決めた規律に縛られる父親、という父母像から進化していく。正義・真理・愛という原理の象徴になる。人間は愛と正義の原理を自分の中に取り込み、神と一つになる。最終的には詩的、象徴的にしか神について語らないようになる。

 

 本章では東洋と西洋の神のあり方や、思考と行為のどちらに重きを置くかなどのテーマについても語られる。興味がある方は一読をお勧めする。

 

愛の現代社会における崩壊

 現代社会(繰り返しになるが1950年代)では上記の各愛が偽りの愛に取って代わられているとフロムは語る。

 現代資本主義社会は政治的自由と市場原理に基づいている。ここで必要とする人は以下のような人間だ。大人数で円滑に協力し合う、飽くことなき消費をしたがり、好みが標準化され、他からの影響を受けやすく、行動が予測しやすく、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令には進んで従い期待に添うように行動し、摩擦を起こすことなく、社会という機械に自分を進んではめこむような人間現代社会が必要としているとする。

 結果、現代人は自分自身からも仲間からも自然からも疎外されているとする。身の安全を確保しようとし、考えも感情も行動も周囲と違わないようにしようと努める。それでいて孤独で、孤独を克服できないときに必ずやってくる不安定感・不安感・罪悪感におびえている。

 成熟した愛ではなく、「人格のパッケージ」をできるだけ高い値段で売ることが愛と勘違いされ、それに人々は血眼である。

 (恋愛市場、婚活市場という言い方がある2020年もここの状況は変わっていないように感じる。)

 

愛の習練

 というわけで、愛の習練方法に話は移る。しかし、処方箋は提示されない。自分で経験する以外にはないとするが、愛の技術への前提条件とアプローチの習練について述べられる。

 

 まずは前提条件である。

  1. 規律
  2. 集中
  3. 忍耐
  4. 技術の習得への最大限の関心

 

 4つを意訳しよう。

 規律は気の向いた時だけではなく、日常規則的に実施することである。外から課されるのではなく、自ら課さなければならない。

 集中は「ながら」をしない、逆説的ではあるがひとりでいられる能力を身に着けることである(酒を飲んだり、テレビや映画やスマホいじりをしていては一人とはみなされない)。周囲の人間に対する敏感さを身に着けること、変化に気づくこともここに入る。まずは自身の変化に気づくことから練習をする。

 忍耐はすぐに結果を求めないこと。

 関心は、愛の技術を重要なものだとみなすことである。

 

 

 愛に特有の事項として、フロムは下記のものを追加する。

  1. ナルシシズムの克服(客観と理性)
  2. 「信じる」こと(信念と勇気)

 

 ナルシシズムに囚われていると、自身の内側に存在するものだけを現実として経験することになるが、これは愛の条件を満たせない。人間や事物をありのままに見て、客観的なイメージを自分が欲望と恐怖で作り上げたイメージと区別しなければならない。そして客観的に考えるための能力が理性であり、この前提は謙虚さである。全知全能への夢から覚め、謙虚さを身につけなければならない。

 

 「信じる」ということは、理にかなった信念を信じることである。知性や感情を働かせ、事実を積み重ねなけらばならない。道理にかなわぬ権威への服従である根拠のない信念と区別しなければならない。

 科学であれば、検証の結果信頼できる仮説、道理にかなった理論を少なくともその正しさが一般に認められるまで信じることが理にかなった信念である。これは自身の経験、思考力、観察力、判断力に根ざしている。他方で根拠のない信念は、ある権威や多数の人々が言っているからという理由だけで何かを真理として受け入れることである。

 人兼関係においても信念は見られる。たとえば、生命や人間の尊厳に対する畏敬の念はその人の一部分であって、変わることはないとフロムは述べている。「私は私だ」という確信を支えているのもこの芯である。また、他人の可能性や人類を「信じる」ことにも繋がる。信念を持つには勇気がいる。これは危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。

 信念と勇気の習練は、自身がどのようなときに信念を失ってずるく立ち回るかを知ることから始まる。どんな口実で正当化し、信念を失っていくかを調べる必要がある。

 

 人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなくてはならない。そしてそのためには、生活の他の面でも生産的かつ能動的でなければならない。愛以外の面で生産的でなかったら、愛においても生産的にはなれない。

*4

 

愛の技術と社会的な側面

 本書の結びはフロムの社会に対する問題提起である。

 資本主義社会は公平の倫理規範で成り立っている。しかし、公平と愛とは異なる。利己主義が公平の倫理によって縛られているだけの社会で愛の習練は可能だろうか。愛がきわめて個人的で些細な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならないのではないか。

 現代社会は企業の経営陣と職業政治家によって運営され、人々は大衆操作により操られている。より大量の生産と消費という手段が生きる目的となってしまっている。いまや人間はロボットである。自分の中にあるきわめて人間的な資質や社会的な役割にたいする究極的な関心をもっていない。

 

 人を愛せるようになるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。経済という機構に奉仕するのではなく、経済機構が人間に奉仕しなければならない。たんに利益を分配するだけでなく、経験や仕事も分配できるようにならなければならない。人を愛するという社交的な本性と、社会生活とが、分離するのではなく一体化するような、そんな社会をつくりあげなくてはならない。

*5

 

 身近な人に対しても愛するということの実践は難しい。この信念と勇気に向き合い続けられるかは不安である。そして苦境にある人に対するバッシングや、無関心、理念や制度に対するデマに依拠した攻撃を見ることが多い昨今の世の中。世間や権威に阿諛追従するのではなく、歴史や人の在り方を信じて生きられる人でありたいと思う。諦めずに色々な愛の形を実践すること。それが人類全体に対する愛の態度なのだと思う。

 

 フロムは筆を以下のように置く。

 

例外的・個人的な現象としてだけでなく、社会的な現象としても、愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。

*6

 

 

 

 

 

*1:: Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.(フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P3)

*2:Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.(フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P39

*3:Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.(フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P96

*4:Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P191-P192

*5:Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.(フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P197

*6:Fromm,Erich (1956).THE ART OF LOVING. HarperCollins Publishers.(フロム エーリッヒ 鈴木晶(訳)(2020).愛するということ 紀伊國屋書店,P198