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「レトリック感覚」:レトリックとは何か、効果的な修辞の使い方3「その他のフィギュール(誇張法、列叙法、緩叙法)」

今回の内容

 文章で相手を説得するために、あるいは起伏を与えるために、人々は何を行うか。我々が日々の暮らし毎日読む文章。特に作家達は作品内の文に趣向を凝らす。前回に引き続き、テーマはレトリック、修辞についてである。この記事では下記トピックの後半の一部(誇張法、列叙法、緩叙法)についてご紹介する。

  1. なぜレトリック、修辞が存在するのか(前々回記事)
  2. レトリック、修辞にはどのような技法が存在するのか、どう使うか(前回記事、本記事)

 

 今回ご紹介するレトリックは「誇張法、列叙法、緩叙法」である。

 出典は佐藤信夫著、『レトリック感覚』。主要な修辞技法の分析の部分を紹介する。文章に散りばめられた技法や意図に気づくことができるようになる。

 

 前回の記事はこちら。

 

mittlee.hatenablog.com

 

 

 修辞学は元々は古代ギリシャの弁論、演説、説得に関する学問分野。中世からは自由七科(リベラルアーツ)の一つとして数えられている。 

ja.wikipedia.org

  

 『レトリック感覚』は元は1978年に出版された著作である。今回読んだのは講談社学術文庫で1993年に出版された書籍である。

 

 

目次

 

 

トピック:レトリックについて

レトリックの役割(再掲載)

 佐藤は、レトリックの役割として下記の3つを提示している。

  1. 説得する表現の技術
  2. 芸術的表現の技術
  3. 発見的認識の造形 

 1と2は平凡な表現の枠組みを破ること(作文の規則にいくらか違犯しそうな表現を求めて発生したはず)によって意表に出ようとする技術であり、発信者が受信者を驚かす戦術であると佐藤は述べる。

 説得する表現の技術とは、討論で勝つための技法である。「弁論術」と訳される「レートリケー」である。意図は理屈をこねた説得である。

 芸術的表現の技術とは、 魅力的な表現そのものを目的とする技術である。独特な形態によって私たちにしみじみと何かを感じさせるような言語表現、文章の起伏や落語の魅力、日常の冗談などいっさいを含む。

 発見的認識の造形とは、私たちの認識をできるだけありのままに表現するための技術である。これは、事象を名前や単語のままでは表現できないときにレトリックの技術を要求するものである。

 

トピック2:レトリックの具体例

 引き続き、本書で取り上げられたレトリックの具体例を一部紹介する。

 辞書に載っていないような事象、あなたが一度だけしか体験していない事柄を表現するのにレトリックやことばのあやを必要とする。「名状しがたいものを名状せざるをえない」ときに我々はレトリックの力を借りるのである。

誇張法

 もしも、誰かが、私という男を、私が毛虫を嫌う程度に厭がっているとしたら、――もしも私に対してそんな気持ちを有つ人間が一人でもこの世に居ることを知ったら、私はもう生きている気持を失うだろう。そんなにまで思われて、どうしておめおめ生きていることが出来るだろう。私は、本気でそんなことを考えたこともある。ああ、俺はよっぽど毛虫が嫌いなんだな、と苦笑したものである。*1*2

 ものごとを実際以上に大げさに言い表す表現が「誇張法(イペルボール(ハイパーボリ))」である。フォンタニエの定義*3によると、誇張法は下記の特徴を持つ。

  1. ものごとを、度を越して拡大しあるいは縮小し、それらを、あるがままの状態よりもはるかに高い程度に、あるいは低い程度において提示するものである。
  2. ただしそれは、だますためではなく、まさに真実そのものに導くためであり、信じがたいことを語ることによって本当に信じるべきことをはっきりさせるためである。

 佐藤は、誇張法のことを嘘は嘘でも「わざわざばれるようにつくうそ」だと述べる。言葉を嘘をつくために使うという第一の反逆、それに対してあえて嘘だと分かるようにする第二の反逆。言語に対する二重の謀反による優れた自己批評が誇張法であり、それゆえに上質なユーモアが生まれるとしている。

記号体系、あるいは文化とは、自然的事実に≪うその可能性≫を付与することによって成立した。うそへの恐怖、信用維持への努力こそ、記号、言語、文化の一条件であった。*4

 佐藤のこの記述を見て筆者が誇張法をふんだんに織り交ぜているもの、二重の批評の例では虚構新聞が近年の典型だろうか。

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心情的な誇張法

 心情に対して使う誇張法は、理解されることへの期待(または甘え)と無関係ではないと佐藤は述べる。自分の気持ちを分かってくれると思われる相手を誇張法は求める。   

 他方で、コケトリーな要素をそぎ落とした文、本節の最初に挙げた尾崎の毛虫についての文章はユーモアのあるものに仕上がっている。

論理的な誇張法

 事実に即し、論理に忠実に記述した結果が誇張表現になってしまうこともある。「北千住の大通りをこのまま北へ進むと日光にたどり着くが、演芸場は大通りから反対方向に一町程度」という例。ここには一切虚偽はないが、過剰な実証性あるいは論理性が言語自体への自己パロディーとなっている。

 

列叙法

 おおぜいの花魁のきげんをとるんですから、大変なもんでございまして、あんまりやさしくするてえと、当人が図にのぼせちゃう。といって、小言をいやあ、ふくれちゃうし、なぐりゃ泣くし、殺しゃ化けて出る。どうも困るそうですなあ、女というものは……。*5*6

 ものごとを念入りに表現するために同格のさまざまな言葉をつぎつぎと積み上げていく表現法が「列叙法(アキュミュラシォン(アキュムレイション))」あるいはコンジュリーである。

 際限のない現実を造形するために、際限のないことば遣いをするのが本技法である。ことばの量をむりやり現実とつりあわせようとするために、大げさになると佐藤は述べている。佐藤は主な列叙法として列挙法と漸層法を挙げている。

列挙法

 さまざまな同格のことばを次から次へと並べ立てていく表現が「列挙法(エニュメラシォン(イニュメレイション))」である。列挙表現はことばの外形をその意味内容に似せる試みだと佐藤は述べる。

 フクスケは道のはしを軒づたいにうなだれて歩いていった。ホルモン、すし、ライスカレー、ごった煮、おでん、あめ湯、大福餅、天ぷら、シュウマイ、酒まんじゅう、やきとり、カツ丼、かば焼き、にぎりめし、みそ汁、刺身。たがいにおしあいへしあい腫物のようにかさなりあい、くっつきあって、いっせいに匂いをもうっと吹きつける。*7*8

 上記のように言葉を並べ立てることによって、活気や乱雑さを表現することにも利用できる。

漸層法

 末尾に向かうにつれて強調ないし強化の程度が次第に上昇するように諸要素を配置するのが「漸層法(クリマクス(クライマックス))」、あるいはグラダシォン(グラデーション)である。

 本章の最初に挙げた志ん生の落語の一説。徐々に表現を強くしている見本である。さらには登り切ったところでとぼけてさえいる。

 強める=上昇の方向だけでなく、弱める=下降の方向に繰り返す漸層法もある。

緩叙法

 「あげくのはてに誰かが、ちび大将にズドンと一発お見まい申し上げたってわけかい?」

 「笑い事じゃないぞ」とウィングが言った。

 「笑う気はないさ」、シェーンはライターの火をつけた、「もっとも、だからと言って泣きたいとも思わんがね。」*9*10

 ある事柄を肯定するかわりに、それと反対の事柄を否定する表現法が「緩叙法(リトート(ライトティーズ))」である。事実を緩叙することによって、視点を移動させることができる。これは、強調や相対化、あるいはユーモアの効果をもたらす。

二重の否定と経過

 肯定と二重否定は論理的には同じものを示す。しかし、ことばとして記述する場合、そこに何らかの思考の過程があったとみることができる。

  1. うれしい。
  2. かなしくない。
  3. うれしくないわけではない。

 上記の1から3までは、論理としては同じことを意味する(「かなしい」が「うれしい」の否定だとしたらだが)。しかし、2と3については中くらいにうれしいというニュアンスを感じるだろう。この過程によってどっちつかずなニュアンスが紛れ込むことが、緩叙法の効果である。この過程は3重の否定になったり、疑問を表す助詞を追加することでさらに重ねることができる。そのまま肯定するのではなく、反対の事例を否定することで、肯定には当初含まれていなかった反対の事象が現れるのだ。

対義語

 対義語は、矛盾関係にある、論理的に裏となる意味の言葉では必ずしもあるわけではない。記号的な意味を持つ「真」「偽」などは矛盾関係にあるが、「人間」の反対語は何か。例えば「月」と「スッポン」はどうか。

 辞書的な対義語のネットワークを疑うことを佐藤は勧める。ある詩人は人魚の対義語として浪を見ていた。

 

まとめ

 説得や何らかの感情を呼び起こすのに加えて、論理のみで説明できない事象を言語化する発見的認識の造形という効果がレトリックにはある。

 本記事までの3回の記事に亘って主要なレトリックの技術について概説した。レトリックの技法を知ることで、筆者が読み手である我々に対して何を働きかけようとしているのかを理解する助けとなる。また、我々が意識して読み手に働きかけることができる。

 とかく本ブログ著者の文章は画一化されたものになりがちである。山あり谷ありの文章を書けるようになりたいと憧れを感じた。

 レトリックの技法は黙説法、対比法、諷喩、転喩、反義結合法、反語、変容法と他の技法が存在するとのことである。

 記事では紹介できていないが、別の作品を例にしたレトリックの解説、7つの技法をさらに詳細に本書では解説されている。読み物としても大変興味深いので、ぜひご一読いただけたらと思う。

bookclub.kodansha.co.jp

 

*1:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P244

*2:尾崎一雄『毛虫について』より

*3:『ことばのあや』第一巻、第二部、第二章

*4:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P237

*5:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P272

*6:落語「お直し」志ん生

*7:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P267

*8:開高健『日本三文オペラ』より

*9:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P292

*10:ブレット・ハリデイ著書より

「レトリック感覚」:レトリックとは何か、効果的な修辞の使い方2「転義、比喩(直喩、隠喩、換喩、提喩)」

今回の内容

 文章で相手を説得するために、あるいは起伏を与えるために、人々は何を行うか。我々が日々の暮らしで読む文章。特に作家達は作品内の文に趣向を凝らす。前回に引き続き、テーマはレトリック、修辞についてである。この記事では下記トピックの後半の一部についてご紹介する。

  1. なぜレトリック、修辞が存在するのか(前回記事)
  2. レトリック、修辞にはどのような技法が存在するのか、どう使うか

 

 今回ご紹介するレトリックは「比喩」である。

 出典は佐藤信夫著、『レトリック感覚』。主要な修辞技法の分析の部分を紹介する。文章に散りばめられた技法や意図に気づくことができるようになる。

 

 前回の記事はこちら。

mittlee.hatenablog.com

 

 本書の内容は、下記のページで試し読みができる。 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 

 修辞学は元々は古代ギリシャの弁論、演説、説得に関する学問分野。中世からは自由七科(リベラルアーツ)の一つとして数えられている。 

ja.wikipedia.org

  

 『レトリック感覚』は元は1978年に出版された著作である。今回読んだのは講談社学術文庫で1993年に出版された書籍である。

 

 

目次

 

 

トピック:レトリックについて

レトリックの役割(再掲載)

 佐藤は、レトリックの役割として下記の3つを提示している。

  1. 説得する表現の技術
  2. 芸術的表現の技術
  3. 発見的認識の造形 

 1と2は平凡な表現の枠組みを破ること(作文の規則にいくらか違犯しそうな表現を求めて発生したはず)によって意表に出ようとする技術であり、発信者が受信者を驚かす戦術であると佐藤は述べる。

 説得する表現の技術とは、討論で勝つための技法である。「弁論術」と訳される「レートリケー」である。意図は理屈をこねた説得である。

 芸術的表現の技術とは、 魅力的な表現そのものを目的とする技術である。独特な形態によって私たちにしみじみと何かを感じさせるような言語表現、文章の起伏や落語の魅力、日常の冗談などいっさいを含む。

 発見的認識の造形とは、私たちの認識をできるだけありのままに表現するための技術である。これは、事象を名前や単語のままでは表現できないときにレトリックの技術を要求するものである。

 

トピック2:レトリックの具体例(転義、比喩)

 ここから先は、本書で取り上げられたレトリックの具体例を一部紹介する。

 辞書に載っていないような事象、あなたが一度だけしか体験していない事柄を表現するのにレトリックやことばのあやを必要とする。「名状しがたいものを名状せざるをえない」ときに我々はレトリックの力を借りるのである。

直喩

 私は本屋にはひつて、ある有名なユダヤ人の戯曲集を一冊買ひ、それをふところに入れて、ふと入口のはうを見ると、若い女のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のやうな感じで立つて私を見てゐた。*1*2

 現実のあり様をすべて的確に1対1で対応してくれる言葉はない。そのときに我々は別の単語で、有限の言葉で無限の事象を語るための工夫をしなければならない。その基本形が「直喩(シミリチュード(シミリ))」である。

 典型的なものとして説明されるのは「XはYのようだ」、「YそっくりのX」というような形である。モンテーニュのエセーにてローマ法王ボニファキウス8世について語った部分である。

 法王ボニファキオ八世は、狐のようにその地位につき、獅子のようにその職務をおこない、犬のように死んだという。*3*4

 ここでY項に入れられている動物は、実際に我々が見た動物ではなく、そのイメージである。狐の狡猾さ、獅子の勇猛さはよく見る比喩として分かりやすいだろう。犬のように死ぬからみじめなイメージを我々が覚えるかというと分からないが。

類似関係の設定

 直喩のもう一つの機能が「類似関係の設定」である。先ほどの太宰の文の中にある「若い女の人」の立ち姿と「鳥の飛び立つ一瞬前のやうな感じ」というのは常識的な対比ではない。さらには川端康成『雪国』の中で駒子について語る「美しい蛭のやうな唇」。蛭と美しさは「=」で結ばれるものではない。書き手が、通常成り立たない対比を「=」で結ぶ、または親しい間柄を認める。直喩では類似関係を筆者が設定することができるのである。

 

隠喩

 顔をしかめたのは介添の青二才だけであつた。葦名の目の色がかすかにうごいて、笑いのさざなみをふくんだやうであつた。*5*6

 あるものごとの名称を、それと似ている別のものごとを表すために流用する表現技法が「隠喩(メタフォール(メタファー))」である。

 XとYという二つのものごとや観念が互いに類似しているとき、Yの名称や記号を借用してXを表現することというのが古典的な説明である。平常表現ならXとされるところにYの語句が代入される、「代入理論」という考えを紹介している。(しかしながらやや単純に過ぎ、代入部分以外の文脈とのつながりの考慮が不十分だと佐藤は述べている。)

 例えば、下記は『ロミオとジュリエット』の中でロザラインとジュリエットについてロミオの友人が述べた一説である。

 行こうではないか、そしてとらわれぬ目で、くらべて見るがいい、彼女の顔を、俺が教えてやる別の娘の顔とな、思い知らせてやろう、君の白鳥がただの烏だったと。*7*8

直喩と隠喩:予め関連性が自明である隠喩

 アリストテレスは隠喩が基本の形式であり、直喩は引き延ばされた説明付きの隠喩という捉え方をしていた。佐藤はこの見方に異を唱える。

 隠喩では、XとYの類似性を読者が認識していることが前提条件となると佐藤は述べる。先ほどの直喩の場合、読者が想定しない二つの単語の間に類似関係を設定することができるが、隠喩の場合は最初から類似関係が理解できる必要がある。

 先ほどの石川の文の中の「笑のさざなみ」という隠喩。これは観念を表現するための発見的認識と、感覚的にとらえやすいものとするという古典レトリックの芸術性の両機能と持つ。しかし、このさざなみの隠喩は他でもありうる類推であるという点が、先ほどの直喩の「美しい蛭のような」とは異なる点である。隠喩は隠れている類似性を発見してくれるのである。

 

換喩

 広い門の下には、この男の外に誰もゐない。唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまつてゐる。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありさうなものである。それが、この男の外には誰もゐない。*9*10

 ふたつのものごとの隣接性に基づく比喩が「換喩(メトニミー(メトニミー))」である。

 換喩ではXとYの隣接性に注目する。換喩について、佐藤はアンリ・モリエの『詩学とレトリックの辞典』の定義を紹介している。

  • あるひとつの現実Xをあらわす語のかわりに、別の現実Yをあらわす語で代用することばのあや
  • 「その代用法は、事実上または思考内でYとXを結び付けている近隣性、共存性、相互依存性のきずなにもとづく

 典型的な例としては「赤頭巾」がある。童話の主人公である少女の名前は作品中に出てこない。しかし、「彼女が身に着けている赤い頭巾=童話の主人公」として語を我々は用いている。先に引用した羅生門の「市女笠」や「揉烏帽子」も、被り物自体を指しているのではなく、それを被った女性や男性の換喩である。

隣接性による表現の流動

 換喩を使うとき、そこには隣接性がある。全く異なるもの同士を例えるときには直喩や隠喩が登場する。しかし、姉と妹や父と息子のようなものを例える時には、換喩的関係が現れる。

 隣接性には、多様なものがある。所有者と所有物、土地、抽象名詞、はたまた因果関係。列挙には限界があると佐藤は語る。しかし、佐藤が紹介しているセザール・シェノー・デュマルセの『比喩論』にある一覧を思考整理の参考に記載する。

  1. 《原因》によって、結果を表現する。
  2. 《結果》によって、原因を表現する。
  3. 《容器》によって、内容を表現する。
  4. 《産地の名称》によって、産物を表現する。
  5. ものごとの《記号》によって、そのものごとを表現する。
  6. 《抽象名》によって、具体物を表現する。
  7. 情念や内的感情の発生する場所と見なされる《身体の部分》によって、感情を表現する。
  8. 《家の主人の名称》によって、建物や組織を表現する。

 

提喩

 堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。*11*12

 類概念によって種を、あるいは種概念によって類を表現するのが「提喩(シネクドック(シネクドキー))」である。

 提喩は、より抽象的な表現からいっそう具体的なイメージを生むという言語認識能力を利用している。

 上の例文の「白いもの」はもちろん雪のことである。しかし、文章の流れからこの「白いもの」が「雪」であるという判別を我々は問題なく判断する。かつ、「白いもの」と書くことで「雪の白さ」のイメージを強調することができる。

 これとは反対に、種による提喩がある。エジプトを表した「乳と蜜の流れる土地」。「この上もなくうるわしい土地」を具体的な名詞を使うことで表現している。

 多くの隠喩を二重の提喩で表現することができると佐藤は述べている。

  •  種X -(類の提喩)->(類)-(種の提喩)-> 種Y

 例えば、白雪姫という呼称は「色白の女性」->(白いもの)->「雪」と考えることができる。

 

まとめ

 説得や何らかの感情を呼び起こすのに加えて、論理のみで説明できない事象を言語化する発見的認識の造形という効果がレトリックにはある。

 本記事では主要なレトリックの技術の内、「転義(トロープ(トロープ))≒比喩」について概説した。限られた言葉を用いてより広い事象を表現することが可能になる。

 比喩を次に見かけたときは、直喩、隠喩、換喩、提喩のどれか、どのような効果があるのかを意識してご覧になってはいかがだろうか。

 次回は、転義、比喩以外に紹介されたレトリックの技法を紹介する。

 

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*1:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P75

*2:太宰治『メリイクリスマス』より

*3:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P63

*4:モンテーニュ『エッセー』IIより

*5:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P118

*6:石川淳『野守鏡』より

*7:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P101

*8:ロミオとジュリエット』I・2より

*9:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P144

*10:芥川龍之介羅生門』より

*11:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P194

*12:井上靖『比良のシャクナゲ』より

「レトリック感覚」:レトリックとは何か、効果的な修辞の使い方1

今回の内容

 文章で相手を説得するために、あるいは起伏を与えるために、人々は何を行うか。我々が日々の暮らし毎日読む文章。特に作家達は作品内の文に趣向を凝らす。今回のテーマはレトリック、修辞についてである。この記事では下記2点についてご紹介する。

  1. なぜレトリック、修辞が存在するのか
  2. レトリック、修辞にはどのような技法が存在するのか、どう使うか(次回記事)

 

 この記事では、佐藤信夫著、『レトリック感覚』を紹介したい。西洋でのレトリックの歴史、日本での受け入れ、主要な修辞技法の分析が行われている。これを読むことで、文章に散りばめられた技法や意図に気づくことができるようになる。

 あるいはご自身で使ってみるのもよいだろう。

 

 本書の内容は、下記のページで試し読みができる。 

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 修辞学は元々は古代ギリシャの弁論、演説、説得に関する学問分野。中世からは自由七科(リベラルアーツ)の一つとして数えられている。 それが今日までどのように続いてきたのだろうか。

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 佐藤信夫は日本の言語哲学者である。1932年に東京府(現東京都)で生まれた。レトリックに関する著書や、言語学に関する文献の翻訳を手掛けた。1993年没。

 『レトリック感覚』は元は1978年に出版された著作である。今回読んだのは講談社学術文庫で1993年に出版された書籍である。

 

 

目次

 

 

トピック:レトリックについて

レトリックの役割

 佐藤は、レトリックの役割として下記の3つを提示している。

  1. 説得する表現の技術
  2. 芸術的表現の技術
  3. 発見的認識の造形 

 1と2は平凡な表現の枠組みを破ること(作文の規則にいくらか違犯しそうな表現を求めて発生したはず)によって意表に出ようとする技術であり、発信者が受信者を驚かす戦術であると佐藤は述べる。

 説得する表現の技術とは、討論で勝つための技法である。「弁論術」と訳される「レートリケー」である。意図は理屈をこねた説得である。

 芸術的表現の技術とは、 魅力的な表現そのものを目的とする技術である。独特な形態によって私たちにしみじみと何かを感じさせるような言語表現、文章の起伏や落語の魅力、日常の冗談などいっさいを含む。

 発見的認識の造形とは、私たちの認識をできるだけありのままに表現するための技術である。これは、事象を名前や単語のままでは表現できないときにレトリックの技術を要求するものである。

 

古典レトリックの五分科

 ローマで集大成された古典レトリックは次の五科目に編成されると佐藤は述べる。本書では「3.修辞」が主要な対象として扱われている。

  1. 発想
  2. 配置
  3. 修辞(表現法)
  4. 記憶
  5. 発表

 「発想」はアイディアを発見するという問題である。また、発見された主題について説得力のある理由付けを探求する。

 「配置」は序論、陳述、論証、反論、結論といった弁論の展開順序を検討する。

 「修辞」は文章を飾る技法である。相手の心に訴えかけるように印象的に表現することと佐藤は述べる。フィギュール、「ことばのあや」という呼び方を佐藤は多用する。

 「記憶」は話ことば、演説のための暗記術である。しかしながら、理論はあまり残されていないと佐藤は述べる。

 「発表」は話術や所作など舞台に属する技術と考えられる。発声法、顔の表情、姿勢、手のあげかた、足の踏み鳴らしかた、指のしぐさまでが真剣に研究されていた。

 本書で多数の過去の文例と共に取り上げられるのは、「修辞」の部分である。

 

レトリックの歴史

 佐藤は下記のようにレトリックの歴史を概説する。

 古典レトリックは古代ギリシャで生まれた。ここまで述べたように、元々は説得する表現または芸術的表現の技術であった。その技術は古代ローマに引き継がれ、ヨーロッパに伝わる。中世からルネッサンス、近世へと至るころに精製されたレトリック体系を誇るようになる。

 しかし、1900年代、20世紀に入った頃にレトリックは衰退する。事物を言語を駆使して客観的に記述できる能力が自然にそなわっているという確信があった。しかし、1960年代から再びレトリック研究が見直されたとしている。*1

 

日本へのレトリック紹介

 日本へのレトリック・修辞学の紹介について、佐藤は、尾崎行雄明治10年(1877年),『公開演説法』他:発声法、演説のための技術としてのレトリック)、菊池大麓(明治13年,文部省印行『百科全書』内の翻訳文「修辞及華文」(元はチャンブル兄弟の"Information for the Pepople"):レトリックにより芸術的=文学的方向を目指す論述)、黒岩大(明治15年,『雄弁美辞法』:説得の技法と魅力的な言語表現の技法)の業績を先史として挙げる。

 そこから本格的なレトリック理論の研究としての高田早苗明治22年,『美辞学』:全編・後編2冊の質量ともに充実した理論書)、島村滝太郎(抱月)(明治35年,『新美辞学』)、五十嵐力明治42年,『新文章講話』)の著作を挙げている。

 

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まとめ

 説得や何らかの感情を呼び起こすのに加えて、論理のみで説明できない事象を言語化する発見的認識の造形という効果がレトリックにはある。

 本記事ではレトリックが日本にもたらされた歴史について要約した。

 次回以降の記事では実際の小説の中でどのようにレトリックが利用されているかを紹介する。次のテーマについて紹介する予定である。

  1. 直喩
  2. 隠喩
  3. 換喩
  4. 提喩
  5. 誇張法
  6. 列叙法
  7. 緩叙法

 

 

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*1:佐藤信夫, (1992).『レトリック感覚』 講談社, P22-23