「レトリック感覚」:レトリックとは何か、効果的な修辞の使い方3「その他のフィギュール(誇張法、列叙法、緩叙法)」
今回の内容
文章で相手を説得するために、あるいは起伏を与えるために、人々は何を行うか。我々が日々の暮らし毎日読む文章。特に作家達は作品内の文に趣向を凝らす。前回に引き続き、テーマはレトリック、修辞についてである。この記事では下記トピックの後半の一部(誇張法、列叙法、緩叙法)についてご紹介する。
- なぜレトリック、修辞が存在するのか(前々回記事)
- レトリック、修辞にはどのような技法が存在するのか、どう使うか(前回記事、本記事)
今回ご紹介するレトリックは「誇張法、列叙法、緩叙法」である。
出典は佐藤信夫著、『レトリック感覚』。主要な修辞技法の分析の部分を紹介する。文章に散りばめられた技法や意図に気づくことができるようになる。
前回の記事はこちら。
修辞学は元々は古代ギリシャの弁論、演説、説得に関する学問分野。中世からは自由七科(リベラルアーツ)の一つとして数えられている。
『レトリック感覚』は元は1978年に出版された著作である。今回読んだのは講談社学術文庫で1993年に出版された書籍である。
目次
トピック:レトリックについて
レトリックの役割(再掲載)
佐藤は、レトリックの役割として下記の3つを提示している。
- 説得する表現の技術
- 芸術的表現の技術
- 発見的認識の造形
1と2は平凡な表現の枠組みを破ること(作文の規則にいくらか違犯しそうな表現を求めて発生したはず)によって意表に出ようとする技術であり、発信者が受信者を驚かす戦術であると佐藤は述べる。
説得する表現の技術とは、討論で勝つための技法である。「弁論術」と訳される「レートリケー」である。意図は理屈をこねた説得である。
芸術的表現の技術とは、 魅力的な表現そのものを目的とする技術である。独特な形態によって私たちにしみじみと何かを感じさせるような言語表現、文章の起伏や落語の魅力、日常の冗談などいっさいを含む。
発見的認識の造形とは、私たちの認識をできるだけありのままに表現するための技術である。これは、事象を名前や単語のままでは表現できないときにレトリックの技術を要求するものである。
トピック2:レトリックの具体例
引き続き、本書で取り上げられたレトリックの具体例を一部紹介する。
辞書に載っていないような事象、あなたが一度だけしか体験していない事柄を表現するのにレトリックやことばのあやを必要とする。「名状しがたいものを名状せざるをえない」ときに我々はレトリックの力を借りるのである。
誇張法
もしも、誰かが、私という男を、私が毛虫を嫌う程度に厭がっているとしたら、――もしも私に対してそんな気持ちを有つ人間が一人でもこの世に居ることを知ったら、私はもう生きている気持を失うだろう。そんなにまで思われて、どうしておめおめ生きていることが出来るだろう。私は、本気でそんなことを考えたこともある。ああ、俺はよっぽど毛虫が嫌いなんだな、と苦笑したものである。*1*2
ものごとを実際以上に大げさに言い表す表現が「誇張法(イペルボール(ハイパーボリ))」である。フォンタニエの定義*3によると、誇張法は下記の特徴を持つ。
- ものごとを、度を越して拡大しあるいは縮小し、それらを、あるがままの状態よりもはるかに高い程度に、あるいは低い程度において提示するものである。
- ただしそれは、だますためではなく、まさに真実そのものに導くためであり、信じがたいことを語ることによって本当に信じるべきことをはっきりさせるためである。
佐藤は、誇張法のことを嘘は嘘でも「わざわざばれるようにつくうそ」だと述べる。言葉を嘘をつくために使うという第一の反逆、それに対してあえて嘘だと分かるようにする第二の反逆。言語に対する二重の謀反による優れた自己批評が誇張法であり、それゆえに上質なユーモアが生まれるとしている。
記号体系、あるいは文化とは、自然的事実に≪うその可能性≫を付与することによって成立した。うそへの恐怖、信用維持への努力こそ、記号、言語、文化の一条件であった。*4
佐藤のこの記述を見て筆者が誇張法をふんだんに織り交ぜているもの、二重の批評の例では虚構新聞が近年の典型だろうか。
心情的な誇張法
心情に対して使う誇張法は、理解されることへの期待(または甘え)と無関係ではないと佐藤は述べる。自分の気持ちを分かってくれると思われる相手を誇張法は求める。
他方で、コケトリーな要素をそぎ落とした文、本節の最初に挙げた尾崎の毛虫についての文章はユーモアのあるものに仕上がっている。
論理的な誇張法
事実に即し、論理に忠実に記述した結果が誇張表現になってしまうこともある。「北千住の大通りをこのまま北へ進むと日光にたどり着くが、演芸場は大通りから反対方向に一町程度」という例。ここには一切虚偽はないが、過剰な実証性あるいは論理性が言語自体への自己パロディーとなっている。
列叙法
おおぜいの花魁のきげんをとるんですから、大変なもんでございまして、あんまりやさしくするてえと、当人が図にのぼせちゃう。といって、小言をいやあ、ふくれちゃうし、なぐりゃ泣くし、殺しゃ化けて出る。どうも困るそうですなあ、女というものは……。*5*6
ものごとを念入りに表現するために同格のさまざまな言葉をつぎつぎと積み上げていく表現法が「列叙法(アキュミュラシォン(アキュムレイション))」あるいはコンジュリーである。
際限のない現実を造形するために、際限のないことば遣いをするのが本技法である。ことばの量をむりやり現実とつりあわせようとするために、大げさになると佐藤は述べている。佐藤は主な列叙法として列挙法と漸層法を挙げている。
列挙法
さまざまな同格のことばを次から次へと並べ立てていく表現が「列挙法(エニュメラシォン(イニュメレイション))」である。列挙表現はことばの外形をその意味内容に似せる試みだと佐藤は述べる。
フクスケは道のはしを軒づたいにうなだれて歩いていった。ホルモン、すし、ライスカレー、ごった煮、おでん、あめ湯、大福餅、天ぷら、シュウマイ、酒まんじゅう、やきとり、カツ丼、かば焼き、にぎりめし、みそ汁、刺身。たがいにおしあいへしあい腫物のようにかさなりあい、くっつきあって、いっせいに匂いをもうっと吹きつける。*7*8
上記のように言葉を並べ立てることによって、活気や乱雑さを表現することにも利用できる。
漸層法
末尾に向かうにつれて強調ないし強化の程度が次第に上昇するように諸要素を配置するのが「漸層法(クリマクス(クライマックス))」、あるいはグラダシォン(グラデーション)である。
本章の最初に挙げた志ん生の落語の一説。徐々に表現を強くしている見本である。さらには登り切ったところでとぼけてさえいる。
強める=上昇の方向だけでなく、弱める=下降の方向に繰り返す漸層法もある。
緩叙法
「あげくのはてに誰かが、ちび大将にズドンと一発お見まい申し上げたってわけかい?」
「笑い事じゃないぞ」とウィングが言った。
ある事柄を肯定するかわりに、それと反対の事柄を否定する表現法が「緩叙法(リトート(ライトティーズ))」である。事実を緩叙することによって、視点を移動させることができる。これは、強調や相対化、あるいはユーモアの効果をもたらす。
二重の否定と経過
肯定と二重否定は論理的には同じものを示す。しかし、ことばとして記述する場合、そこに何らかの思考の過程があったとみることができる。
- うれしい。
- かなしくない。
- うれしくないわけではない。
上記の1から3までは、論理としては同じことを意味する(「かなしい」が「うれしい」の否定だとしたらだが)。しかし、2と3については中くらいにうれしいというニュアンスを感じるだろう。この過程によってどっちつかずなニュアンスが紛れ込むことが、緩叙法の効果である。この過程は3重の否定になったり、疑問を表す助詞を追加することでさらに重ねることができる。そのまま肯定するのではなく、反対の事例を否定することで、肯定には当初含まれていなかった反対の事象が現れるのだ。
対義語
対義語は、矛盾関係にある、論理的に裏となる意味の言葉では必ずしもあるわけではない。記号的な意味を持つ「真」「偽」などは矛盾関係にあるが、「人間」の反対語は何か。例えば「月」と「スッポン」はどうか。
辞書的な対義語のネットワークを疑うことを佐藤は勧める。ある詩人は人魚の対義語として浪を見ていた。
まとめ
説得や何らかの感情を呼び起こすのに加えて、論理のみで説明できない事象を言語化する発見的認識の造形という効果がレトリックにはある。
本記事までの3回の記事に亘って主要なレトリックの技術について概説した。レトリックの技法を知ることで、筆者が読み手である我々に対して何を働きかけようとしているのかを理解する助けとなる。また、我々が意識して読み手に働きかけることができる。
とかく本ブログ著者の文章は画一化されたものになりがちである。山あり谷ありの文章を書けるようになりたいと憧れを感じた。
レトリックの技法は黙説法、対比法、諷喩、転喩、反義結合法、反語、変容法と他の技法が存在するとのことである。
記事では紹介できていないが、別の作品を例にしたレトリックの解説、7つの技法をさらに詳細に本書では解説されている。読み物としても大変興味深いので、ぜひご一読いただけたらと思う。